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デルフォイの神託の合意形成機能〜意味なんてなくていい!

なんでもかんでも「民主主義」でいいのか、というのは誰しも一度は思うことかもしれない。多数決で決まったことが「正解」かというと、決してそんなことはないからだ。

じゃあ昔はどうしていたのだろう。人類の歴史では民主主義以前のほうがめちゃくちゃ長い。先人と言えばギリシア人。ギリシアの合意形成を探ってみると、「デルフォイの神託」がその機能を果たしていた。

デルフォイの神託

ギリシア時代には「デルフォイの神託」というものがあった。デルフォイはギリシアの首都アテネから西北へ120キロメートルほどのところに位置するパルナッソス山の西南麓にある聖地。ギリシア神話では全能の神ゼウスが世界の中心と決めた場所と言われている。

この聖地は標高600メートルくらいの山の斜面にあり、アポロン神殿を中心とする神域に都市部が隣接した、都市国家(ポリス)だった。

このデルフォイの神託は実は1000年に及ぶほどのあいだ、「神託の地」として機能した。

この「神託」とは何かというと、「神の言葉」のことだ。人間が神にお伺いをたてたときに、神の御言葉をいただく。それが神託だ。

「木の壁」という神託の意味は?

どんなときに神の言葉を聞くかと言うと、人間が困ったときだ。たとえば、ギリシアが国家滅亡の危機に瀕していた紀元前5世紀の神託には、ペルシア戦争の決断が告げられた。

ギリシアの東から超巨大国家アケメネス朝ペルシアが攻めてきたときに、ギリシアはどうすべきか悩んだのだ。

そのとき告げられたものはこれだ。

「ゼウスは、トリトゲネス女神(アテナ)に木の壁を、唯一の不落の拠り所となり、汝と汝の子らを救わんがために与えたまうであろう」

この「木の壁」の解釈を巡って、ギリシア内では論争が起こった。ある者は、「木の壁」とはアクロポリスを取り囲む丸太や板でつくった「防御壁」だと主張した。しかし、アテネのテミストクレス将軍は、「木の壁」とは「船」を指すと主張した。つまり、ペルシア艦隊を海上で迎撃すべきだ、と。

結果的に、ギリシア軍は後者を選択し、サラミスの海戦でペルシア軍を打ち破った。これでデルフォイの神託はさらに権威を高めたのだ。

ここで疑問が起こる。前者だったらどうなっていたのか? 普通に考えて木の壁といえば、防御壁のことだろう。しかし、テミストクレスは「船」だと解釈した。かなりの突飛な発想だ。

つまり、デルフォイの神託では「正解」は語られていなかったのだ。それをどう解釈するのか、にすべてが委ねられた。きっと横にはとても優秀な参謀や知識人が解釈を助けて、「船」という戦略の「正当性」を押し上げたのかもしれない。

デルフォイの意味の操作

そもそも、デルフォイではどのように神託を受けていたのか。場所は、アポロン神殿の中心にある地中深く掘られた特別な場所で執り行われた。そこには岩がむき出しになっており、裂け目があった。裂け目の上に高さ1メートルほどの三脚台を置いて、そこに神託を授かる「ピュティア」という純潔の巫女が座った。

ピュティアは神託の前には断食をし、清めの儀式のあと、泉で沐浴し、霊水を飲み、月桂樹を燻した煙を吸い、その葉を噛んだ。三脚台に座り、目を閉じ、大きく深呼吸をする。

すると、予言の神アポロンが降臨し、巫女は普段とは違う声色で話し始める。まさに「トランス状態」での発言だ。隣にいる男性神官が巫女の謎の言葉を書き留め、その意味を解釈し、「韻文」の形に直される。これがデルフォイの神託なのだ。

ここには二重三重の「意味の操作」が働いている。

まず巫女が数々の儀式を経ることで、巫女に神性が宿る。住民たちは何か特別なことが起こっているという錯覚を得る。さらに、巫女自身がトランス状態になり、論理的な言葉を発せないような仕掛けがされている。極めつけとして、男性神官による解釈が入り、「韻文」の形にすることで、「詩」のように意味を多様に取れるような文体に変えられる。

さらに、1996年、科学者たちはデルフォイに科学のメスを入れた。すると、神殿の下では2本の断層線が交差しており、特殊な石灰岩層が含まれていた。断層の摩擦で加熱されると、そこから化学物質が気化し、メタン、エタン、そして、エチレンが検出されたのだ。

古代ギリシアの伝記作家プルタルコスによると巫女の座る岩の割れ目からは「プネウマ」という霊気のようなものが出ていたという。この正体がエチレンだったのだ。エチレンは投与されると、体外遊離や陶酔感のようなものが得られると言われている。これも巫女のトランス状態を促したのだ。

巫女の儀式、エチレンによるトランス状態、神官の翻訳、韻文・・・これらの「意味の操作」によって、神のお告げは生み出されたのだ。

意味の源泉はどこにもない

だからといって、嘘だ、偽りだ、詐欺だ、といいたいのではない。こうやって合意形成が仕組み化されていたということに注目したい。いまであれば、もしペルシア軍が攻めてくるのであれば、戦略が立案され、多数決によって戦略が選択されることもあるかもしれない。それは、誰も責任を取りたくないからだ。「シン・ゴジラ」の世界のように、政治家も官僚も科学者もわからない事象に対しては何も判断できないし、したくない。

だからこそ、デルフォイでは神に委ねられた。厳密に言うと、神に委ねるフリをした。そうすると、誰も否定しない。神のお告げを信じ、さらには、それを「正解」となるように頑張るのだ。神が「船」だと言ったのなら、戦士たちは死ぬほど頑張れる。自信にもつながる。

結局ここには「正しい決断」というものはない。「正解」も「本当の意味」も存在しない。そう信じることだけがここにはある。しかも、そう信じれるような仕掛けを二重三重に用意している。一番偉いのはテミストクレスが「船」だと判断したことかもしれないが、防御壁が不正解だったかどうかは誰もわからない。歴史のifは誰も検証できないからだ。

理由や意味はいくら求めても限界がある。ペルシア軍に必ず勝つ方法など、やってみないとわからないからだ。だったら、信じられる「意味の源泉」をつくり出す、というのがデルフォイの神託だったのだ。みんなが信じられ、みんなが判断を任せられ、さらに、みんなでその神託を正解にしようと頑張れる源泉だったのだ。

マーケティングもKPIもコンプライアンスも、理由や意味を死ぬほど求める時代になっている。でもどこまでいっても「正解」など存在しない。正解のように見えるものがそこにあるだけで、100%は保証されない。

だったら、現代のデルフォイの神託のように信じられる何かに向かえればいいのかもしれない。信じにくい時代に、信じられる何か(サイコロでもおみくじでも自分の信念でも)を自分で勝手につくり出したほうが、実はいい選択ができるかもしれない。

自分だけ、もしくはチーム内の「デルフォイの神託」を設計してみるといいのかもしれない。「デルフォイ」という神託アプリがあれば、もう悩まずに人生気楽に生きられそうだ。

(参考文献)
『科学と非科学 その正体を探る』中屋敷均


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