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「公正不偏」は究極のテーマ

はじめに

皆様、こんにちは。第8回目のブログです。
今回は、少し監査論の専門的なテーマについて話したいと思います。
ただ、監査論のテーマとはいっても、社会生活を送るすべての人に関係のあるテーマだと思います。
なので、ぜひ皆様にも最後まで読んで頂きたいです。

公正不偏の態度とは何か

公認会計士試験などで監査を勉強する時に、「公正不偏の態度の保持」という言葉がでてきます。

『常に公正不偏の態度を保持するとは、職業的専門家としての判断を危うくする影響力を受けることなく、結論を表明できる精神状態を保ち、誠実に行動し、公正性と職業的専門家としての懐疑心を堅持できることをいう。

簡単にいうと、「監査では、誰か特定の立場に偏らずに、公平で中立な目線でもって、誠実な結論を出しなさいよ。」ということです。
キーワードとしては、「判断」「誠実性」「公正性」「懐疑心」などでしょうか。

「公正不偏の態度」について思うこと

この概念は会計士試験の勉強をしていた時から専門学校の講義で教わっていました。当時はぶっちゃけ「ふ~ん。」って感じでした。
「要するに、監査は公平な目線でしなければならないってことでしょ?ハイハイ、わかりました。あたり前だよね。」という感じです。

しかしこの「公正不偏の態度の保持」というワード、監査役になってから、各種監査役向け協会のセミナーや講演会に出席するようになり、改めて頻繁に耳にするようになりました。
登壇者は皆、異口同音に「監査役に求められる最も重要な要素は、独立性と公正不偏の態度の保持だ。」と言います。

それでもやはり私は、
「そりゃ大切だけど、そこまで改めて強調するほどに、独立性や公正性って大切なのかな?それよりも、会社に貢献するために自分に何ができるかを考える方が大切なんじゃないかな?」
と、はじめ思っていました。

しかし、年明け頃から、業務を通じて「公正不偏の態度は、監査役、もとい、ほぼ全ての人にとって非常に大切なテーマなのではないか?」と感じ始めました。

公正不偏の態度は全ての人にとって重要

なぜ公正不偏の態度が重要なのか、必要な理由を書いてみます。

  • 集団・社会活動で、一人ひとりの物事の捉え方・見え方が違う中、多くの人が納得し、理解を得やすい判断ができる。

  • 誠実かつ公正であることを心がけることで、感情や私欲に流されずに客観的な意思決定ができる。結果として人から信頼を得られる。

  • 過去の原因論に陥ったり、特定の人物を悪者扱いすることなく、「これからどうするか」を考える未来志向のスタートに立てる。

MECEでなくて恐縮ですが、上記3つが理由として思い浮かびました。
これらの結果、長期的に自分を含めた全員が幸せになれるのだと思います。
逆に、公正不偏の態度を見失ったまま意思決定をしてしまうと、感情のわだかまりが生じて、集団内に局所的な不満や歪みが生まれることになるでしょう。

特に3番目の未来志向に関して、『人を責めるのではなく、人と問題を切り離して考える。客観的かつ冷静に課題をとらえて、とるべきアクションを考えていく。という態度も、キーワードである「誠実性」や「公正性」の一部を成しているのではないかと、個人的に解釈しています。

ですから、公正不偏の態度は監査役だけではなく、経営者、CFO、営業担当者、経理担当者、事務作業員、その他私的な人間関係の中での役割(友人関係・親子関係など)に至るまで、全ての人にとって重要だと考えています。

特に大きな意思決定を行う立場にある人ほど、公正性を逸脱した判断・決定を行った時の皺寄せやダメージが大きいです。
一方で、そのような大きな意思決定の役割を担う人ほど、立場的に公平な判断を行うことが難しくなる傾向にあると思います。

公正不偏であることの難しさ

いかに誠実な人間であっても、高レベルなリーダーシップ・スキルを持つ経営者であっても、公正不偏であることは簡単なことではありません。判断はどうしても偏ります。

そもそも人は一人ひとり、同じ事実でも見えている世界が違います。
ゾウを見たことがない人に目隠しをしてゾウを触らせると、ある人は「カサカサした柱みたいなもの」と言い、ある人は「ツルツルした硬い曲がった石みたいなもの」と言い、ある人は「フサフサした筆みたいなもの」と言うかもしれません。
同じものを触っていても、足を触っている人、牙を触っている人、しっぽの先を触っている人で、捉えている世界の解釈は全く違います。

立場も違う、役割も違う、利害関係も違う、そんな集団の中、的確に物事の本質を捉えて、結論を出すことは容易なことではありません。
加えて、自己利益や保身を全く考えず、自分自身の利害も客観視することは本当に難しいことです。

公正不偏のプロとしての監査役

以上、説明してきたように、公正不偏の態度は全ての人にとって重要な概念であるものの、役割も影響力も大きい存在になるほど、コントロールが難しくなります。
そのために、全ての業務執行への関与を外してまで公正であることを求められるのが、監査役という存在です。いわば公平性のプロです。

しかし、いくら監査役といえども、どうしても特定の人物や自分自身の利益に(無意識に)偏ってしまう危険があります。むしろ、完全に、誰に対しても、何に対しても偏らない人間なんていないはずです。いたらそれは、神か、もしくは人ならざる全治全能の宇宙のような存在で、もはや人間ではない気がします。

それでも、監査役である限り、可能な限り公正不偏である努力をしなければなりません。以下、公正不偏の態度を保持するための自分自身のアクションプランを記載します。

・可能な限り多くの人の話を聞くこと
先ほどゾウの喩え話をしたように、同じ事実でも人によって驚くほど捉え方や解釈が異なります。仮に話していることは全て事実でも、その内容は、とある事実のほんの一部の側面に過ぎないことが多いです。一つのものの見方に囚われすぎることなく、多面的な事実の捉え方を知るために、可能な限り多くの人の話を聞くことが大切です。

・理解に徹すること
偏った物の見方をしてしまうのは、他人だけではなく自分自身も同じです。「こうだ!」と決めつけて、固定観念を持ったまま人の話を聞いても、相手が本当に見ているものを理解することはできないでしょう。
私が傾聴する時は、自分の考えがふと頭をよぎっても、それをそっと風呂敷に包むイメージで脇に置いておき、ひたすら相手の話す内容と感情の動きに寄り添って話を聴くようにしています。
これが絶対的に正しい傾聴方法かはわかりませんが、とある傾聴の先生に教えてもらったやり方です。
よければ皆様も一度試してみてください。

・懐疑心を持つこと
理解に徹した上で、懐疑心を持つ、仮説を立てるという作業を同時に行うことも重要です。純粋に相手が話していることが虚偽ということもあります。また、事実であっても、物事のほんの一面を話しているだけに過ぎないことが多いです。解釈のすれ違いや誤解があることもあるでしょう。また、相手が本当だと思って話していることが、実は深層心理が本心と異なる場合だってあるでしょう。
相手の話すことも、自分自身の考えですらも、偏っているかもしれないということ、別の仮説を常に頭で構築しながら人の話を聞くことを意識します。(これは私自身まだあまりできていません。)

・理解した事実の裏付けを可能な限り取ること
相手の話を聞いた時点で浮かんだ仮説は、まだ仮説でしかなく、検証できていないことが殆どです。客観的で公正な判断を下すためには、可能な限りファクトを収集し、改めて冷静に俯瞰した目線で物事を見つめなおすことが必要です。ファクトベースでの判断は基本的なことのようで、手間もかかるし、意外と実行が難しいです。

・公平誠実に判断した上で、最終的に自分がとるべきポジション・スタンスを明確にすること
最後に、ファクトを集め、事象を客観的に捉えられたら、それに対する最終的なアクション・判断・意思決定をどう下すかを決めます。この時、自分がとるべきスタンスを明確に意識するべきです。
自分はどの立場に立って意思決定をするのか。
会社のための判断をすべき場合もあれば、市場目線での意思決定が必要な場合もあるでしょう。時には、会社や市場よりも、自分自身や家族を守るための判断をしなければならない時もあるかもしれません。
矛盾するようですが、如何に公正不偏の態度といっても、その意思決定には必ず何かしらの意思決定の軸があるはずです。その判断軸が、どれだけ誠実で、説明可能か、ということかと思います。

さいごに

今回のテーマは、非常に真面目、かつ抽象度の高い重いテーマになりましたが、皆様ついてきていただけたでしょうか?
今回話したテーマは、今後の自分の行動の一つの指針となるであろう、重要な気づきなので、共有できればと思い文章にしました。
皆様にとって何らかの示唆を与えられるものであれば、この上ない幸いです。

感想・ご意見など、ぜひフィードバック頂けると嬉しいです!
それでは、次回もお楽しみに。


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