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人と話す時


人と話す時、どうしても私はこうで〜と。
分かって欲しい気持ちが先走ってしまう。
きっと今の環境に、
私の理解者が、近くにいないと、思い込んでいるからだろう。

".私はこう思ってて、こうしています!
その話はとてもわかります。"

この主張はしてもいいのだろうかと
よく考えてしまう事がある。

主張する事を
わがままだと言われ続けた末路なのだろう。


それを悲しいと思うことも、ダメとされてきた。


だから苦しいという感情を他人に出してしまうと、
私は時間差で罪悪感に押しつぶされる。

それでも頑張ってきた。

だけど、どこがゴールなのかもわからない。

何かを始めてみようとしても、
蘇ってくる声。

"あんたは何やっても無理だよ
これが出来ないのにあんたには出来ない"

ああ。こう言われるのか。悲しいな。
涙を流すと、"何悲劇のヒロインぶってんの?"


その言葉は幼い私の心にすごく響いた。
"妹はできてあんたはできない。"

おかげで妹は心のどこかでまだ私を馬鹿にしてる。

何か出来たことがあっても、"へー、すごいじゃん。"
明らかに感情のない、それが出来て当たり前。
言葉だけが飛んでくる。

私は家族の内の悪者に徹しなければいけないんだと。
ある時、勘違いをした。


この話をすると、ある人は、

"そんなの皆んな感じてる事だから。あなただけじゃないよ。"

そう言わんばかりの言葉を並べる。


"そんなの"で片付けた言葉は、
私のゴミ箱には入りきらない程の量だとも知らずに。


あーだ、こーだと容易く言葉を並べる人は、
私の経験を実際にしていたわけでもなく。
みたわけでもない。

別に頼んでない。

ただ、聞いて欲しいだけなのに。

苦しい、話すのも苦しい。


私の心はどんどん1人になっていく。


そんな時に、妊娠した事がわかった。


その子は4年後、私にこう言った。
"ママが1人で寂しそうに泣いていたから、私が生まれたんだよ?"


なんて幸せな事だろうと思った。


私にとって、最高のギフト。
初めて、寄り添ってもらえる人に出会えた。


幸せな気持ちでいっぱいになった。

だから、私はこの子を必ず守らなければならない。
それは、過保護に育てる事でも、甘やかす事でもない。

ただただ、居場所になる事。

そのために、私は私の心と前に進まないといけない。

踏ん張らなければならない。

そのために、今日もここに私の思いを記す。

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