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外国人労働者と働いてみて(その一)

昭和55年(1980年)、
私が最初に外国人と共に働いた初年度です。
当時は、結婚もしていましたし、
子供も2人いました。
業種は建設業で,現在、一番人出不足とされている業種の一つです。
ちなみに農業もーーー

はっきり言って、当時は誰でも協力してくれるのであれば、来るもの拒まばず、
去る者追わずの心境でした。

当時、在住していた街といえば、高級住宅地と同和地区、朝鮮部落が混在していましたが、それなりに秩序は保たれていました
と言うか、互いの違いは分かっていたように思います。

最初に、募集をかけて雇い入れたのが同和地区という、いわゆる村と言われていた、、、35歳の男性でした。
それはそれは、酒は食らうわ、ただ飯はくらうわ、あげくの果てに当日欠勤はするわで、お~じょしたもんでした。

でも、現場に出れば後先考えないくらいに仕事をしたものです。
こいつ、バカか?と思えるぐらいに(笑)

日雇い人夫(その日暮らし)も、雇っていましたが、ほとんどが使い物にはなりませんでした。日本人なんですけどね💦しかも日当が高い!
人夫出し(西成労働者)の親方には、13500円~15000円支払い、実際に現場で働く人夫といえば7000円~8000円程の手取り。

そこから、半場代つまり宿泊料金と電気代、飯代、前借分などなど
差し引かれて、一日換算すれば手元に残るのは2000円~3000円程度。
それも、コチラとしては毎日が同じ人夫という訳にはいかず、日替わりランチみたな状態で仕事をしていました。

これらの労働者というのは、大阪万国博覧会が開催された時期の、出稼ぎ労働者のことで、その後の景気低迷と共に残されてしまった日本人のことです。地元にも帰れず、よそにも行けず・・・
即ち、今の大阪西成あいりん地区誕生です。
大阪万博といえば、珍しいもの見たさで、アメリカが月から持ち帰った、
月の石が展示されてました、、、
ただの石としか感じませんでしたど・・・

現在、言われている財政難問題の件ですが
当時から、子育てには子供一人2000万円必要と言われていて、
「おぎゃ~」と生まれた瞬間から、300万の借金を抱えて世に出てきた、、、と言われてました。

それを鵜呑みにしてたせいか、家族のため必死に働いたもんでしたよ。
今となっては、いろんな情報を得る事が出来るので、政治や財政の裏側が、理解できるので、あの時は、いったい何だったんだ、、、と思うばかりです笑)

仕事も忙しくなるにつれ働いてくれる人も増え、気付けば、回りには、同和はもとより、韓国人の女性と暮らしていた
元やくざ、空港の騒音鳴りやまぬ所で暮らす北朝鮮人、それとは相反する韓国人、
たまにイラン人、、、といった具合で事業が進んで行き、
そしてバブルの崩壊を迎えました。

家内は大変どころか、なんちゅう男にくっついたんだろう~と思っていたでしょうね💦

そんな中でも、何故かみんな協力的でした。金儲けの為に,,,
喧嘩も半端なかったですし、警察に世話になることも、ざらにありました。それも捜査2課、、とか(笑)
それでも言葉には言えないものがありました。
それは、彼らにとってココは、貧乏と孤独感を取っ払ってくれる場所で、あったのではないかと。

バブルが崩壊した時は、そら~もう~大変でした、っていうか集金は出来ない、手形は割れない、銀行は横向き、身内にも言えない…いつ人生が終わっても不思議じゃないくらいで、ましてや仕事の取り合いから、請負単価の下落合戦(言うところの、談合たたき合い)、付き合いしていた業者も、もの凄い勢いで倒産していきましたし、私のところも別!という事ではありませんでした。

借金に次ぐ借金で、従業員を食わせるために走り回ったもんで、
やくざの追い込みや、手形交換の熾烈極まる争い、生きるか死ぬかの状態が
数年続きましたけど、朝鮮人も韓国人も同和の人も、とりあえずは、離れず着いてきてくれてましたね、イラン人は全くダメでした、というより異次元の世界観を持っていましたから、縦にも横にもならなかったです。
自分たちの生活習慣を第一とし、決してこちらの要望に耳を貸すことはありませんでした。それどころか、こちらのルールに対して反発して、仕事を放棄し帰ってしまうことが、当たり前。

ただ、在日とみられる韓国人や朝鮮人は、過激ではありましたが、お互いの認識と報酬が成立すれば、それなりにルールを守ることは出来ていました。

お互いを認識し合うには、そんなに時間は必要としませんでした
一緒に酒飲んで同じものを口にして、気持ちを…正直に伝えるようにすればの話ですが,,,こちらが疑念を持てば相手も疑いの目で、こちらを見てきます
でも、どこかで気持ちの差があったことも、ぬぐい去ることは出来ませんでしたね。

そして、バブル崩壊後、追い打ち掛けるが如くの「阪神大震災!!」
これが本当の地獄の始まりでした。

いや~ホントに、伊達政宗じゃありませんが、
「生まれて来るのが早かったのか、それとも遅かったのか?」なんて思ったものでした。

たった!46秒・・・一瞬でそれまでの努力も結果も全て失ってしまう
それどころか、それまで恩恵を受けてきた街、社会環境が目の前から消えて無くなってしまう訳ですから、家族にとっても青天の霹靂の思いだったことでしょう。

災害復興事業開始
想像すら出来ない天変地異、H7.01.17AM 05.46ーM7直下型大地震発生。
電気1か月、水道3か月、ガス6か月使用不能…金融機関も機能不全、ましてや交通網寸断、通信手段も閉ざされ、
発生当時に頼りとなたのがラジオで、支給されたものといえば、巻きずし三本。
所帯持ちなのに

その後、4か月経ってから自衛隊登場。
日本の自衛隊は凄かったです。
何せ、命令が出ていない被災地は見過ごして行きますから、
命令系統は素晴らしいものがありましたね、一般的にあり得ないことですが
でも、救済活動が開始すれば、そら~も~不眠不休で三日三晩連続で救済活動を続けます。体力では自信があるはずの土方も顔負けですわ(笑)

現状といえば、そこらじゅうの家屋に埋もれた人々の遺体、我々も、近場の人命救済に町内の方々と一緒に行動。
探り探り邪魔なものを撤去しながら時間をかけて探していくと、
そこに出てくる、それまで寝ていたであろう人の手・・・
一瞬、身が硬直し何とも言えない状況化に遭遇。

この時だけは、外人系は避けるような態度でしたね、、、

一心不乱になって、一人引きずり出せば後は、ただひたすら人探し。
従業員二人と一緒に、仕事道具持ち込み穴ぐらに入り込み、一人はダンプで死体安置所へ搬送。みんな、とりあえずは嫌な顔せず作業に従事してくれましたが、日が経つにつれ事務所には寄り付かなくなりましね

安置所は、市民体育館でしたから、ダンプの荷台に乗せて運び込みましたが、館内は見たこともない壮絶な状態となっていて、ならべて置くにも時間が、かなり要りました。これが戦争なんだ・・・と一瞬思ったぐらいに

汚い話ですが、便も二週間は出ませんでしたし💦当然お風呂も・・・
救済を始めた頃は、朝鮮の人、韓国の人、同和村出身の働き手は頑張ってくれましたが、一日の終わりに、酒を酌み交わし始めると、ヤッパリ自我に目覚めるというか、声を荒げてガンガン喋り、あげくには喧嘩までするしまつ。でもまあ~飯がただで食べれることが良かったのかも。。。

災害復興事業は憲法で3年のカウントと言われていたので、2年間は復興事業に携わることになりました、がココでも人間の欲から生まれる、問題が多種多様に出てきました。国が出した支援金20兆円争奪戦。
例えば、ダンプ一日チャーターして一台10万円(基本35000円)、とか
作業者一日25000円(基本13500円)とか、災害復興許可書一枚50000円(申請で役所が無料で出るもの)とか、個人宅への修理費、通常の1.5倍のぼったくり、から揚げ弁当(鶏肉3個入り)が2000円で50食売り切りとか、コンビニ商品は空っぽ、火事場泥棒、詐欺、自殺、孤独死,,,,
水と言えば、道路から湧き出る水をバケツでくみ上げそれを18L ポリ容器に入れたり、普段飲まない農薬交じりの田んぼの井戸水を一旦熱して飲料水としたり、役所調達課の職員が自殺したり、、、と

被災者の死者が山ほど出ているにもかかわらず、
どいつもこいつも、どつきまわしたろか!って思いながらの日々でした。

その後、役所からの依頼で行った作業が、なんと避難所指定の学校内の
校庭に簡易便所用の穴掘り、それも30カ所以上、土方冥利ですって(笑)

そうかもしれませんね。作業中、うちの従業員は、他の被災者と混じることなく、自分たちとは違う環境だと思っていたようです。
喋ってしまえば、日本人じゃないのが分かってしまうからでしょう
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復興事業が終了と同時に、全ての動きが停止し仕事もイッキに無くなり、
これを機に、これまで働いてくれてる従業員に、「もう、事業を維持することは出来ないから、一旦清算します」
と伝え、雇ってくれる所も見つけているから、希望があれば紹介します。

と伝えたのですが、これが彼らの不満をあおったようで、その場は修羅場となり、
金は金は金は?で大変でした。
普通、彼らの世界観では、即リンチだったでしょうね

顔つきも目つきも体格も言語も、日本人には程遠い容姿の人間数人(団体で)からの、罵声を浴びたら自分を制御することは困難ですよ。それにその場を収めたとわ言え、後々ひつこく付きまとってきます、特に自分が困れば訪ねてきます

まあ~日本人でも有りうることですけど・・・
この時私は、言語として韓国語と英語の勉強を少ししていたので、会話に
不便さはありせんでしたが、情けなかったですね~ホント。

当然の如く、なきの涙で家内にも離婚を申し出ていたので、
家内曰く「今更離婚なって致しません、、」って言われ
後が無くなってしまた自分でした。
子供の一人が頭が割れてしまって
意識不明状態でもありましたし、
家内はその事が心配の種だったのでしょう

これから、どうすれば?何からすれば?何をしたら?
一から何を始めるのか?
どうやって食っていくのか?

今回は4000文字越えたので、一区切りとさせて頂きます。
その二では、リサイクル工場とゴミ収集作業時での経験談を
書き起こしたいと思っています。

ありがとうございました。





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