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とりま現代詩を読んで旅をしよう私

できれば毎日書きたいと思ってる。書いてない時間というのはなんというか空っぽで書いている時は何だか生きてる感じがするし

このnoteに書くとview数が見られるから、あ、誰かがここを通り過ぎてくれたんだなってそこで改めて自分の書いているという実態が浮き彫りになる感じがする

書くまではすごく遠くてこのnoteを開くまでが1番足取りが重い。でも書きはじめると、あ、開いてよかったって少し安心してたりああれも書こうこれも付け加えようってなってその半分くらいは忘れながら走り書いている。

スピードがないといけない、書くときは。ゆっくり構成を練って書くとむしろいいことが書けないというか、なんか借り物の言葉のようになってしまう。

3行くらい前で次のトピックを思いついたんだけど忘れてしまった。やっぱりメモらないとすぐに忘れてしまうな

たまに自分にとって、ものすごく画期的なことを思いついたり、自分がぼんやり今まで考えてたことを明確に、もしくはさらに不明瞭にだが細かく教えてくれる本に出会う。

そうして思いついたことや本の内容は忘れたくない。忘れちゃうとまた悩んでた頃に戻ってしまうから。頭がスッキリした状態が好きだ。ふと何か意味のないことをやってたとしてもその意味のないままでいいと思わせてくれたり実はすごく意義のあることだったのに今まで気づいてなかったんだなってことがあるから

最近気づいて忘れたくないなと思うのは
恋は不純物であること
恋は盲目であるからできること
ぬいぐるみを抱いたときもっちりと抱き返してくれる感じが好きなこと
なにか整えられたものより余暇や無駄なことが好きなこと
現代詩とヨツバト!を読むのが好きなこと
毎日Duolingoで勉強して連続記録を更新したいこと。その意地は割と意味がありそうなこと
もっと目を悪くし頭を悪くし考えることを減らしたいこと


そして放っておくといつも生産的な行動を求めえ実行し疲れ、あとから後悔する人へ
これは私であるが
現代詩を読め。そして意味もなく旅をして生きている実感を持ってほしい。

なぜならわたしは行動することでしか、体験の中でしか実感できない

辛いとき、何かを言われたり読んだりしてその一瞬が救われてもその救いは持続しない。

でも現代詩というのはあれは読書ではなく体験であり、旅は紛れもない非日常的で無意味な体験でありえる。

実感として、現代詩も旅も最中には辛かったりあまり心が動かない場合もあるが、それが終わったとき、日常に戻ると、それらの経験がいかに素晴らしく自分の一部を震わせていたかを実感できる

わたしは基本自分で気付けるタイプではない気がする。敏感ではあるけど何か人生の本質や重要な理由や自分や他人を助けるアイディアに突然自ら出会えない。

出会えるときはいつだって、外界の情報のインが多いときだ。もちろん質の良いイン、だが。とても良い経験をしてその経験中は決して良くないのだが、後になってまるで時差ボケのグッドバージョンのように体と頭にずしずしと効用を感じる。

だから現代詩と旅は大事だしジムも大事だし
終わった後気持ちいい無駄なものをわたしは捨ててはいけない

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