身の丈に合った寂しさ

寂しさを感じる弁が弱い気がする。隣の部屋はおそらく半同棲中のカップル、逆側の隣の部屋も週末になると夜遅くまで盛り上がっている。自分が部屋に入れたことがあるのは友達2人、家族1人だけ。アパートの壁の薄さに辟易しながら毎日ヘッドフォンをつけて過ごしている。

その昔、付き合っていた人に電話をかけてほしい、と言われてほとほと困ったことがある。いつ電話すればいいのか聞いたら、かけたい時にいつでも、と言われて途方に暮れてしまった。

電話がかかってくる分にはまだいい。これからお風呂入ろうと思ってたんだけどなーと思いつつ、平気だよ、話せるよと言えばいいから。でも、自分が電話をかけたときに相手がそう思っているかも、と想像するととても耐えられない。せめてアポをとらせてほしい。予定が狂うことも恋愛のスパイスだというのなら本当に勘弁してくれ。

案の定、と言うべきかその人とは早々に疎遠になってしまったけれど、恋愛の真似事から得られたことは結構ある。その1つが、『通話に適した寂しさ』というものがあるっぽい、ということ。

最近寂しいと思ったのはいつだったか考えてみると、好きな友達と散々飲んだ後の帰り道とか、遠方から来てくれた親を見送ったあとの帰り道を思い出す。反対に、実家から親に見送られながら飛行機に乗るときもとても寂しい。保安検査の「今生の別れ」感にいつまで経っても慣れることができなくて、思わず涙が溢れてしまう。

あと、強烈すぎて忘れられないのが、夜の伏見稲荷神社。日中だと観光客が多すぎるのもあり、ふと思い立って夜遅く訪れたのだが、まあ怖い。長く続く鳥居の先が異世界に通じていても全然不思議じゃないと思いながら歩いていたら、猪に遭遇した。そのとき、こんな旅先で一人でのたれ死ぬわけにはいかないと正気に戻り、引き返すことにした。あの日のホテルへの帰り道ほど、一人の寂しさが身に沁みたことはなかったと思う。

並べてみると、自分は帰り道にしょっぱい思いになりがちなんだなあという新たな気づきがあった。楽しい時間が終わってしまった後の、胸にぽっかり穴が空いた虚しい、寂しい感覚は自分にも覚えがある。その寂しさが人恋しさに繋がり、人と話したい(通話したい)に結びつく、のだろうか?頭で考えた予想でしかないのだが。

自分にとって「寂しい」は、「死」とか「終わり」とかに近い、ちょっと重たいテーマなのかもしれない。だからこそ、自分一人で折り合いをつけなければという意識が強くて、人恋しさを感じないのかも。最近ペルソナ3リロード終わらせたばかりだから、若干影響されている感もあるが……。


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