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連鎖反応 [Chain Reaction]【動画】

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つながりのある曲を鎖のように連ねながら、その曲に対する思いをコメントしていきます。ほぼ毎日更新(予定)です。
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2021年4月の記事一覧

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118: Wes Montgomery / Windy

1967年、ウェス・モンゴメリーはアルバム『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』をリリース。このアルバムが、大ヒットとなります。 基本的に、ジャズのアルバムって、ポップスやロックほどは売れないものですが、このアルバムはUSチャートの13位まで上がりました。 シングルカットされたこの曲は、アソシエイションの大ヒット曲(US1位)のカヴァーで、ウェスのヴァージョンもUS44位のヒットとなっています。 その他の曲も、ビートルズをカヴァーしたタイトル曲に代表されるように、大半がポピュラー・ミュージックのカヴァーです。 おそらく「売れ戦狙い」との批判もあったことと思われますし、実際、このアルバムを聴いても「ジャズだなぁ~」とはあまり感じませんが、見方を変えれば、旧態依然としたステレオタイプなジャズから、新しい何かに進んでいこうという意図があったのだと思います。 そして、結果的に、70年代に全盛を迎える、ジャズ・フュージョンやクロスオーヴァ―と呼ばれる音楽の先駆けとなりました。 しかし、ウェスは、それを見届けることなく、1968年に45歳の若さでこの世を去っています。

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117: Wes Montgomery / I've Grown Accustomed To Her Face

オードリー・ヘプバーンは、言わずと知れたイギリスの大女優。 彼女の代表作の1つ『マイ・フェア・レディ』は、元々ミュージカルだったこともあり、映画の中で用いられた多くの曲がジャンルの垣根を超えてカヴァーされています。 映画では最後の最後にヒギンス教授(レックス・ハリソン)が歌っていた(半分は語りでしたが)「I've Grown Accustomed To Her Face」を、ジャズ・ギタリストのウェス・モンゴメリーがアルバム『フル・ハウス』でカヴァーしています(ライヴ・レコーディング)。 アルバム自体は、ジョニー・グリフィンとの熱い共演がセールスポイントですが、2曲目に収録されたこの曲は、実に抒情的な演奏です。 ウェスと言えば、親指1本でピッキングする独特の演奏スタイルが特徴ですが、あのオクターヴ奏法やコードソロを、親指一本で弾いていたというのは驚きです。

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116: Pizzicato V / The Audrey Hepburn Complex

ピチカート・ファイヴのヴォーカリストと言えば、野宮真貴さんのイメージが強いですが、彼女は3代目。 1985年にデビューした時の初代ボーカリストは佐々木麻美子さんでした。(ちなみに、2代目は田島貴男さん(オリジナル・ラヴ)) この曲はデビュー曲。プロデュースは細野晴臣さんで、今はなきノン・スタンダード・レーベルから12インチシングルとしてリリースされました。 いわゆる「ポップでキャッチー」ではないし、実際売れなかったわけですが、35年以上たった今聴いても、クールで洒落たサウンドだなぁ~、と感心します。 さすがは細野さんプロデュース。そして、小西さんが若い!

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115: Pizzicato Five / 20th Century Girl

これは、曲名が「boy」から「girl」に変わっただけですね(笑)。 サウンドは、クロディーヌ・ロンジェの「あなたのいないクリスマス(I Don't Intend To Spend Christmas Without You)」を大胆にサンプリングしています。 この曲が収録されたアルバム『ピチカート・ファイヴ』がリリースされたのは1998年で、まだ20世紀だったのですが、サビでは「私は時代遅れ/20世紀生まれ」と歌われています。当時「21世紀生まれ」はいないのに... 私、このグループが大好きな「ピチカートマニア」でした。特に、小西康陽さんのポップ・フリークぶりには、本当に圧倒されました。 このアルバムに収録されている「パーフェクト・ワールド」のアルバムヴァージョンでは、ゲスト・ヴォーカルに弘田三枝子さんを迎えています。一昨日取り上げた「子供じゃないの」の日本語カヴァーを歌った、あの「ミコちゃん」です。 この辺りのセンスも、見事なグループでした。

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114: T. Rex / 20th Century Boy

ヘレン・シャピロは、10歳の時、いとこのスーザン・シンガーと、同じ小学校に通う少年と、3人でバンド「Susie and the Hula Hoops」を結成します。 その少年の名は、マーク・フェルド。後のマーク・ボランでした。 マーク・ボランが率いたバンド、T.レックスは、グラム・ロック・ムーヴメントの中心的存在。シンプルで覚えやすいメロディと、ストリングスとコーラスで厚化粧されたサウンドは、今聴いても魅力的です。 1973年にシングルリリースされたこの曲(UK3位)は、前年12月の日本ツアーの滞在中に、東京の東芝EMIスタジオでレコーディングされています。 漫画『20世紀少年』のタイトルもこの曲にちなんでいますし、何かと日本に縁のある曲です。 それにしても、このギター・リフ、一度聴いたら忘れない強烈なインパクトがありますね。

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113: Helen Shapiro / Don't Treat Me Like A Child

「涙のバースデイ・パーティ」のオリジナルはレスリー・ゴーアですが、最初に録音したのは、実は彼女ではなく、イギリス人歌手、ヘレン・シャピロでした。 レスリー・ゴーアが録音する前の1963年2月に、ヘレン・シャピロはアルバム『Helen in Nashville』用の曲として録音します。しかし、アルバムのリリースは同年の秋となり、その間の6月にレスリーのヴァージョンがUS1位となったため、「大ヒット曲にあやかったカヴァー」となってしまいました。 先に録音していたのに、しかも遥々ナッシュヴィルまで行ったのに... さて、本題ですが、この曲は1961年リリースのデビュー曲(UK3位)。当時14歳! 14歳で「子ども扱いしないで!」って、どんだけおマセさんなんだか... 日本では弘田三枝子さんが「子供ぢゃないの」のタイトルでリリースしています。(こちらも、当時14歳!) この曲に続き、「悲しき片想い」「夢見る恋」が連続でUK1位になり、人気絶頂を迎えます。 ビートルズ初のイギリス国内ツアー(1963年初頭)は、彼女のサポーティング・アクトだったことからも、当時の人気をうかがい知ることが出来ます。 しかし、1963年を境にヒット曲は途絶えます。まあ、ビートルズが台頭した時代ですし、一気に「時代遅れ」になってしまったということなのでしょう。

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112: Lesley Gore / It's My Party

一見、昨日のマイケルとは全く関係なさそうですが、「プロデューサーがクインシー・ジョーンズ」というつながりがあります。 この曲は、当時16歳だったレスリー・ゴーアのデビュー曲。1963年4月にリリースされると、6月にはUS1位の座に昇りつめます。 日本でも、アメリカン・ポップスの代表的な曲として、ほとんどの人が聴いたことがあるのではないかと思います。 当時はアイドル的な人気だったと思いますが、こうして改めて聴いてみると、やっぱり歌が上手いですね。クインシーがその才能を見出したのも納得です。 ちなみに、US1位をこの曲から受け継いだのは「SUKIYAKI」。そう、坂本九さんの「上を向いて歩こう」です。

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111: Michael Jackson / Don't Stop 'Til You Get Enough

ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』と同じ1979年に、マイケル・ジャクソンは『オフ・ザ・ウォール』をリリースします。 アルバム・ジャケットで、マイケルはレンガの壁の前に立っていますが、「off the wall」は「型破りな」という意味の慣用句のようです。 このアルバムは、マイケルにとって大きな転機となります。 1stシングルとなったこの曲は、作詞・作曲ともマイケル本人。US1位/UK3位の大ヒットとなりました。途中、マイケルが3人に「分身」する演出は、当時としては斬新だったと思われます。 プロデューサーは、マイケルとクインシー・ジョーンズ。このクインシーを迎えるという判断が、次作『スリラー』の「型破りな」大成功につながります。 このアルバムは、『キング・オブ・ポップ』マイケルが、「モータウンのシンガー」から脱却し、ミュージシャンとしての足場を固めた、記念碑的な作品と言えるでしょう。

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110: Pink Floyd / Another Brick In The Wall (Part Ⅱ)

「壁」と聞いて、多くのロックファンが真っ先に思い浮かべるのは、ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』ではないでしょうか。 1979年にリリースされたこの2枚組アルバムは、史上最も売れた2枚組アルバムとも言われています(諸説あり)。 このアルバムにおける「壁」は、実際の壁のことではなく、社会からの疎外感や抑圧等の比喩ですが、まあ、とにかくスケールの大きな作品ではあります。 この曲はアルバムからシングルカットされ、バンドにとって唯一のNo.1ヒット(US/UKとも)となっています。まあ、元々シングルをポンポンとリリースするタイプのバンドではありませんけど。 アルバムには、この曲以外にも「コンフォタブリー・ナム」や「ヘイ・ユー」等、彼らの代表曲が収録されています。 と書いたものの、私、個人的に一番好きなフロイドのアルバムは、『Wish You Were Here』だったりします(笑)。

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109: The Style Council / Walls Come Tumbling Down

ザ・ジャムを解散したポール・ウェラーは、キーボードのミック・タルボットとザ・スタイル・カウンシルを結成します。キーボーディストを相棒にしたところは、スモール・フェイセス・フリークらしいですね。 この曲は、1985年にリリースされた2ndアルバム『アワ・フェイバリット・ショップ』(UK1位/US123位)からの1stシングル(UK6位)。ピアノとオルガンがサウンドを支配しています。後にポール・ウェラーの妻となる、D.C.リーのボーカルもパワフルですね。 このMV、明らかにイギリスの風景ではないことだけは当時でも分かりましたが、ワルシャワで撮影されています。 「スタカン」と言えば「お洒落」なイメージがありますが、まだベルリンに壁があった、そんな時代に、「壁は倒せるんだ!」と歌う「熱さ」を秘めていたことは忘れてはいけないと思います。

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108: The Jam / Town Called Malice

スモール・フェイセスの熱狂的信者と言えば、ポール・ウェラー。 ザ・ジャムでデビューした当時は、派手な動きでリッケンバッカーをかき鳴らす姿から、ピート・タウンゼント(ザ・フー)の後継者という見方もされていましたが、後期になるにつれ、キーボード、特にオルガンの比重が大きくなっていったのは、スモール・フェイセス・フリークの血が騒ぎ出したのでしょう。 ザ・ジャム最後のスタジオアルバム『ザ・ギフト』(UK1位/US82位)からの1stシングルのこの曲(UK1位)でも、オルガンが高らかに鳴り響いています。 ...とは書きましたが... このアルバム、今でこそ大好きですが、大学生の当時は、パンキッシュなサウンドが好みだったので、『イン・ザ・シティ』や『オール・モッド・コンズ』ばかり聴いていて、このアルバムはあまり聴いていませんでした。まあ、若さゆえですね。 そう思うと、ザ・ジャムの解散を決断した時、ポール・ウェラーはまだ24歳だったというのは、ものすごいことではあります。

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107: Small Faces / Sha-La-La-La-Lee

フェイセズの前身はスモール・フェイセスですが、このバンドは、ザ・フーと並ぶモッズ・バンドの代表格でした。 私、基本的にオルガンの音色が好きなので、このバンド、大好きです。 この曲は彼らの3rdシングルで、初のUKトップ10入り(UK3位)となったヒット曲。昨日のフェイセズの曲とタイトルがちょっと似てますね。 同じく1966年には初の(そして唯一の)UK1位となる「オール・オア・ナッシング」をリリース。また、1968年リリースの3rdアルバム『オグデンズ・ナット・ゴーン・フレイク』が初の(これまた唯一の)UK1位となります。 しかし、スティーヴ・マリオットの脱退により、スモール・フェイセスとしての活動は終止符を打ち、フェイセズへと続いていきます。

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106: Faces / Ooh La La

1970年代前半、ロッド・スチュワートは、ソロ活動と同時に、フェイセズのヴォーカリストと「掛け持ち」していました。 スティーヴ・マリオットが脱退したスモール・フェイセズに、ジェフ・ベック・グループからロッドとロン・ウッドが加入して結成されたフェイセズ。 1971年にはシングル「Stay With Me」がヒット(UK6位/US17位)しますが、ロッドがソロで大成功を収めると、次第に「ロッドのバックバンド」的な位置づけとなり、メンバー間の関係も微妙になっていきます。 この曲は、1973年にリリースされた最後のスタジオ・アルバム『ウー・ラ・ラ』のラストに収録されたタイトル曲。歌っているのは、ロッドでも、ロニー・レーン(ベース)でもなく、ロン・ウッド。また、ロッドはこの曲には参加していません。 その後、1973年にはロニー・レーンが脱退し、1975年に解散。 ロッドはその後もソロで大成功、ロン・ウッドはローリング・ストーンズに参加と、バンドの花形であるヴォーカル&ギターの「後加入組」だけが陽の目を見る結果となり、正直、「薄情だなぁ~」と、以前は思っていました。 ただ、ロニー・レーンが多発性硬化症という難病に罹った時、高額の医療費を密かに払い続けていたのは、ロッドとロン・ウッドだったそうです。 同じバンドで過ごしたメンバー同士にしか分からない想いが、きっとあるのでしょう。

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105: Rod Stewart / Maggie May

70年代後半のディスコブームで、ビージーズ同様にヒットを出した1人がロッド・スチュワート。 1978年リリースの「アイム・セクシー」は、UK1位/US1位の大ヒットとなりました。(ちなみに、その後、盗作疑惑で訴訟になり、敗訴しています) ただ、この時期のロッドの作品って、正直、あまり聴いていないんですよね。 よく聴くのはソロの初期、特に2nd『ガソリン・アレイ』と3rd『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』の2枚です。 マンドリンの調べが印象的なこの曲は3rdアルバム収録曲で、1stシングル「リーズン・トゥ・ビリーヴ」のB面としてリリース。ラジオ局のDJがB面の方を気に入ったため、A面よりも流される回数が多かった、というエピソードがあります。 その結果、シングルはUK1位/US1位の大ヒットとなりますが、クレジット上は「B面」のままです。 間違いなくロッドの長いキャリアを代表する曲の1つですが、その曲がB面扱いだったというのも面白い話です。