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妄想のすのす

亀を 家族にお迎えしたときのことを 書きたくなった。
ばじめて 飼った亀は 流通の流れにのって お金と交換されて 我が家の家族となった亀さんだ。


次に お迎えした亀は 流通とは関係のない 値段のつけられていない亀さんだった。いわゆる 授かりものである。


彼らは 時間差を置いて
我が家へとやってくることになったのだが 客人がわが家を訪れ 3時のお茶を楽しんでいたときに 亀たちがとった行動が忘れられないので、それぞれの亀をお迎えした経緯とともに 綴ってみようと思う。


先にひとこと 妄想的なおことわりをさせていただくのであるが
わたしは風変わりなひとで 可笑しいことが大好きな関西人です。
子供のころは 重ねた座布団の上で扇子を握りしめ お笑いの真似事をしては ひとりで楽しんでいた。


たまに 重ねた座布団が なだれのように崩れ 握りしめた扇子とともに 
畳に放り出されることもあったのだが
それもまた 大笑いするほどに楽しかったのだ。
座布団一枚❗とは その頃からの お友達である。


そんな性格が繋いてくださった ご縁なのか わからないが お亡くなりになられた 桂ざこば師匠が まだ朝丸を名乗っていらした頃に、大阪梅田の
とある蕎麦屋で たまたま蕎麦をすすっていた際に お目にかかる機会があり 居合わせた店内の客全員に 蕎麦を振る舞ってくださったことが 懐かしく思い出される。


75歳 まだまだこれからという時に 逝ってしまわれたと思う。
人気商売ということも ひとつだったのであろうが、大盤振る舞いをしてくださった そのお人柄と懐の深さを伺い知れる一幕でもあった。 


芸事というものに 従弟制度が残っているということは、やはりことばにならないものでしか、継承できないものがあるのだろう。
落語という文化が 途切れることなく
継承されていくことと ざこば師匠のご冥福を 心からお祈り申し上げたい。


これから綴ってゆく
このおはなしが 実話か妄想かは
読んでくださった皆さまの ご想像におまかせしたい。
馬鹿馬鹿しいお笑いには 
なれないだろうが
とにかく そっと送り出してみようと思う。


数行で 書けるような力量がないので
とてつもなく 長いおはなしを 書いてしまったことに 失笑しつつ
ともに笑ってくださる どなたかの心へと 静かに 届けられるように
願いを込めて。



はじまりの うた
救われたい 世界

姉が嫁いで 東京へと行ってしまったあとのことである。
がらんと ひろく感じる実家のなかで
遊んでもらえる相手を ひそかにお迎えしにいくことを 決めたわたしは
朝から ずっと わくわくしていた。
両親は いつもより 静かであった。
その静けさが 飽和状態にさしかかっていた。



おいしい 匂いがしたんです。
いまなら なにか連れて帰っても
なにも言われないだろう。
気持ちのすきまをぬって こういうときに丹精こめて 的をこしらえるのが いかにもわたしらしいのです。


わたしは ふらっと買い物へ行った先で ちびガメを隠し持った妄想ルガーに装填した。重量もよさげである。
わたしの妄想は つぼみをつけた。
さらに ちいさく黒く 輝いているカメは 瞬きもせずに 丸くなることで
わたしの大切な 妄想のつぼみを開花させる 仄かな期待に応えようとしてくれた。


うまく使いこなせそうな予感が 小気味よく 気持ちを薔薇色に行き来させるのだから とめられても とまることはないだろう。
あとは 的にゆきつくまでの距離をはかり 間とタイミングを しつこいほどにイメージしてみるまでだ。



しつこいは 翼をもち 温度が高い。湿り気のある 熱を帯びている。
さらにしつこく わたしの妄想は 汗をかきながら 呼吸を遮断されて 発酵へと向かうのだ。



この しつこさは欲望と 少し似ている匂いがする。  
ほどよく発酵がすすんだあたりで取り出して 片栗のありがたい恵みで 粉まみれにさせ ひねったりころがしたりして 捏ねくりまわしたところで ちがうものを つくりあげるのだ。


太陽が 真上にやってきて 影が短くなった頃 わたしの妄想が透明な金色の のし棒を握りしめた。 
のすしかなかろう。
つぼみも のすのすとゆっくり うなづいていた。
そのおおきい うなづきに
海のなまこも 黙るような疾風が
わきおこり 
わかめが空に 飛ばされた。


あぁ なんてことだ。
わかめが空を 飛んでいる。
ひとびとは 嘆きながら 口々に
叫んでいた。
ついに わかめが 空を 飛ぶ日が
やってきたのだ。



空飛ぶ わかめは ほどよく乾いた
状態で 人々の家の軒先や 物干しざおに 巻きついた。
おじいさんは わかめ取りに熱中し
おばあさんは わかめを手にして
うちの わかめ と言いながら
忘れていた スキップをして
台所へと 駆け込んだ。
これには わかめ問屋も青ざめた。
わかめが売れなくなると 大変だ。




わたしの妄想のつぼみの うなづきで
世界が 自由に飛躍しはじめた。
そんなことが 起きているとも知らないで わたしは呑気に 妄想と遊んでいた。



のし餅の餅と化した 夢みるような
妄想の塊を のすのすと熱心に のしあげてゆくのは とても気持ちがよいものだ。妄想のつぼみは 芍薬の花のような かぶりものをして わたしのまえでは しおらしく装っていたのだから わかめを空へ飛ばすような おそろしく大胆な跳躍をしようとは 夢にも思っていなかった。



つぼみは ほかにもいくつか
抱えていたことがあるのだが どうやら このつぼみは ほかのものとは
毛色がすこし ちがっていたようだ。 
すでに わかめは空を 飛び終えている。今頃 どこぞの食卓で 爽やかな気分で 味噌汁の具となり 酢の物の具となっているのだろうが その勇姿は しばらくのあいだ 語りつがれることだろう。
写真や映像などと一緒に 記録されるのだ。わかめが 空を飛んだ日と。



そして そのはじまりが どこだったのかは 誰にも知られちゃいけない
こっそり世界のおはなしだ。 
うっかり口を滑らせても わたしの
妄想のつぼみが やりました とは
言えないので そのフレーズには
変換フィルターをかけておこうと 
思っている。
わかめだって 空を飛びたくなることもある そのほうが 夢が膨らんで
面白い。

 

しつこさとは 関係がないのだが
ちいさく刻まれた餅は 揚げられて
塩まみれの あられになったら
餅ではなくなる。
想像でもいい。
わたしは 
おいしい あられが食べたいのだ。



理想のかたちに近づくと 妄想は発酵を終え しつこさを おいしいに変化させる。つぼみがすこしだけ 膨らむ瞬間だ。
人知れず そっと羽ばたいてゆけ。
主役のちびガメよ 頑張ってくれ。
のすのす。



鉄砲玉は 飛びだしていったら帰ってこない。そんな性質をなぞってか わたしは父から 鉄砲玉と呼ばれていた。
その日もふらりと 出かけてくるわ〜と どこへゆくとも告げずに 家を飛び出してきたのである。そんなことが
いつも わたしの日常だった。


それに 抱えているのは鉄砲ではなく
薔薇色の気分にさせてくれる もっと小さくて素敵な妄想ルガーだ。
いかにも 不審な娘であっただろう。 
父の鉄砲から 妄想ルガーへと ひそかに形状を変えておいたのだ。
父の文才的なものに 心から感謝した。


鉄砲玉が 妄想ルガーにカメを装填して ふらりと戻ってくるのだから さぞ驚くことだろう。
驚いて 体が床から 2センチほど 
浮き上がるのかも知れない。
まるで マンガの世界の仙人さまだ。
不審な娘をもつ親は 仙人技も使えるようになるのかと思うと 理由のある
感謝が 心の中から湧きおこった。


わたしと同じように 飛びだしていったカメは戻らないのに 仙人さまが
舞い降りてきて まるごと受けとめてくださるのだ。有り難くない訳がない。
のすのす。



みつばちと モーちゃんと 
わたしのうた


生きものに 値段がついているのが
理解できない不思議な感覚だった。
たしか 890円だ。
そのちびガメの いのちの値段だということが 理解できないまま もやもやしたまま お金を払ってきた。
まるで雲のなかにでもいるかのように 脳内が もやもやだ。
いのちがお金に見える世界とは
どんなものだろうか。
このまんまの世界なのだろうか。



もやのなかで 立ちつくしていると
どこからか みつばちが ぶんぶんと
飛んできた。
おしゃべりをしてくれると思って 楽しみにしていたのに みつばちは
わたしの目の前で 空中停止して
焦点の定まらない目で
チイサナ コエデ オオキク カタレ
あっち向いてホイ そう言って ぶんぶんと 飛び去った。


もやのなかを ぶんぶん飛びまわる
一匹みつばちは たのしそうに 8の字ダンスをしながら もやのなかの お花畑へと 消えていった。
蜜酔いでも していたのだろう。 
追いかけようとしたのだが あまりにも 速すぎて 見失ってしまった。 
飛んでいたあたりには みつばちの蜜の香りが漂っていて もやのなかに 香りの道のようなものを つくりあげていた。


そこへわけ入っていこうとした時だ。
甘くて 揺れるような残り香が わたしのなかへ 移りこんで 残された。どこかへつながる いい香りだ。
酔いどれみつばちは ことばにならないものを のこして ぶんぶんと もやが わたしを吸いこみはじめる前に それが容易ではないことを 伝えたかったのだ。



おしゃべりは また今度なんだね。
みつばちが わたしのあしもとに
落としていった 花粉のリングを 
指でつまみあげだ。
お花畑へ行きたいな。
あなたは どうかしらね。
花粉が ぶるっと武者震いしたために わたしは くしゃみごっこをする羽目になってしまった。
のすのす。



このもやは どこかではじまったものなのだ。
はじめて 拾った どんぐりや
水田で泳いでいた おたまじゃくしに
値段はついていなかった。
水田には 持ち主がいたはずだが
おたまじゃくしを 家へ連れ帰っても 
うちの蛙の子を盗んだと 怒られた
記憶はどこにももない。
本当は駄目だったのかも知れないが
邪のない子供がすることだからと
許してくださっていたのだろう。



蝉の成虫が 庭木の梢で孵化したら
うちの蝉だと言うひとは どこかにいるのだろうか。
いまのところ 誰も蝉などに 値段をつけるひとは いなさそうだ。
蝉は 幼虫から育てるのに時間がかかり 飼育も難しいから なかなか成功しないのだ。それに 蝉の白い幼虫だって 見たことがない。蝉の卵が 枯木に産みつけられることすら 知らなかったのだ。てっきり 卵は 元気で立派な木の 樹皮のすきまに産みつけられるものだと 思っていたのだから とんだ見当違いをしていたようだ。



産みつけられた卵は 一年間は 卵ですごし 産まれてから幼虫は 自力で土にもぐりこみ 木の根から ちゅるちゅる樹液を吸いながら 成長する。木の根には 栄養が少ないので どんなに頑張って ちゅるちゅるしても 大きくなるのに時間がかかってしまうのだろう。蝉の種類にもよるそうだが 最低でも 2年から 5年ぐらいは ちゅるちゅるしないと 立派な蝉になれないそうだ。あぁ なんというか いじらしい君たちは 蝉だったのかと 幼虫に 声をかけてみたくなってしまった。


彼らは ミンミンと騒がしいだけでは
なかったのだ。夏の暑さを 盛りあげてくれる 彼らの幼虫期のお住まいに お邪魔して 根気よくちゅるちゅるしているところを 眺めさせてもらいたいものだ。

 

気の遠くなるような その成長期間を 蝉は蝉としてあるべき計画を背負って 過ごしている。 蝉の詳しい生態は その飼育が難しいため 解明されていないのだが 蝉となって 7日間と言われていた彼らは もっと生きることが わかってきている。



蟻ともなれば 都会で生きると いつのまにか踏みつけられて この世を去ってしまいそうな ちいさな存在だ。
ひとや車に踏まれても 踏んだほうは 気がつかないので ごめんなさいとも思われず 可哀想に感じる一方で カブトムシやクワガタは 飼育セットも売られていて 大切に飼われていたり 高い値段がつけられて 売買もされている。




いま 眺めている世界では
所有することには ほぼ お金がついてまわっている。いのちの価値に 差ができたのは いつからだろう。


ひとはひとを所有するということも
やってきている生き物だ。本来 所有するということは 物に対するものだと思っていたが 所有できないものにまで 値段をつけて所有してしまうのだ。 そんなに好きなものが
たくさんあると 持ちきれないものを 落とし物にしてしまい 世界が落とし物だらけで 溢れかえってしまいそうだ。



でも 世の中はうまくできている。
落とし物をして 気がつかないひとも
いれば それをひらって 潤うひともいる。そんな図式が 頭のなかで できあがったが ふと 考え直してみると それじゃ ねこばばだ。



笑うに 笑えない事態だが すこし笑って 真面目に書くと わたしは今まで 落し物をひらっては きちんと
警察へ届けに行って 落とし主から
お肉とか お菓子をお礼に 過分にではないくらいのもので 頂いた。
なにか頂戴 とは 言っていない。
だが そういうもらい物は大好きだ。


ねこばばではない方法で わたしのもとへ お肉やお菓子が やってきたのだ。
体力は すこし消耗したが お金は
使っていないのだから 財布の中身は
増えも減りもしていないが それらの品を受けとったときに わたしのこころを あたたかいものが ぐるりとひとめぐりした。


落とし主は 落としたものを さがしていたのだ。もし わたしが ねこばばしたとしても きっと さがし続けていただろう。



もやのなかには もやしゃぶの名店があり いつもお客さまで賑わっていた。
大将は 探しものをさがしに 日本へとやってきた イースター島のモアイさまだ。石像ではない。 モアイという
名の 富豪だった。
彼は 探しものをするために もやしゃぶ店と 銭湯と なんでも販売する
よろず屋を 立ち上げた。
これは 世をしのぐ 仮の姿だ。
何十年もの さきを見越して 何百億もの投資を できるひとだ。
そんなちいさな 面がまえの店には
あまり執着していなかったのだが 不思議なことに どのお店にもひとが集まり 繁盛していた。
みんなは モアイさまとは呼ばずに 親しみを込めて モーちゃんと呼んでいる。


日本をこころから愛し 八百万の神様を理解している かわいい中年の おじさまだ。はじめて日本に来たときに
高下駄を履き 空を飛ぶ 天狗さまを飛行機の窓から 見かけたのだそうだ。 モーちゃんは その天狗さまに呼ばれて 日本に来たのだと 深く信じている。
一日の終わりには みんなと一緒に湯につかり 風呂は熱いのが好きだー と言うのを 楽しみにしていた。



モーちゃんが 湯につかりながら
今日の汗は と 語り始めると みんな そのおはなしが聞きたくて 慌てて湯船に飛び込んだ。



モーちゃんは 同じ一日などないことを 知っていて 毎日の汗を どんな汗だったか おはなししていたのだが
みんなが一斉に 湯につかることで 風呂の湯が 半分以上溢れかえってなくなった。が モーちゃんは それも楽しんでいた。できるだけ 沢山のひとと一緒に 湯につかりたいと望んでいたのだ。



その おはなしの 締めことばが
風呂は 熱いのが好きだー だった。
日本の風呂文化が 好きすぎて 自分の銭湯まで つくってしまった人だ。
どんな湯加減のよさも 知っていて
夏の水風呂も 大好きだったが おはなしの締めことばが 変わったことは
一度だってない。モーちゃんは 自分のことばで 自分のうたを うたいつづけてくれていた。


ある日の晩 モーちゃんの銭湯で
湯あがりのアイスキャンディを 楽しんでいたら 腰に手ぬぐいを巻きつけたモーちゃんが 牛乳瓶を片手にして
こちらへとやってきた。
腰に手をあてて 牛乳を飲んていたが
急に 真面目な顔をして 
なぁ そこの君 どう思うかね とお話がはじまった。
モーちゃんは 遙かとかなたの 遠い
ところを見つめながら 唐突に さがしているのは ごまだと言った。
落とし物の ごまをひらいにきたのだと。君は 見つかると思うかね と訊ねられて 即答は できなかった。


ごまは わたしも大好きだ。
でも そんなちいさな 落とし物が
ちゃんと 見つかるのだろうか。
ごま畑に 落ちているのだとしても
ごまだらけのなかから そのひと粒を
見分けられるのだろうか。
どう答えればいいのか わからなくて
答えかたが 見つかるまで しばらく
モーちゃんと おはなししてみることにした。


それは どんなごまなのか 知りたかった。訊ねてみようとしたのだけれど 逆に モーちゃんから 次の問いを投げかけられてしまった。


皆 なにが出されるのか わからない 
もやしゃぶ店で 列をつくってまで
食べたいものが あるのだろうが
あれは 夢を喰いにきてるんだ。そう
思って眺めてみると 可愛らしくて
素敵に見える。
ごく稀にだが 望んだものと 出されたものが一致する客がいるが そんなときは 店内で拍手喝采が沸きおこり
皆で 賞賛しているぞ。
君は もやしゃぶ店に 望んでいるものはあるのかね と尋ねられた。


どんなごま から 道筋か遠のいてゆく そんな気がして 一瞬うなだれそうになった。 もやしゃぶは 正直に言うと あんまり好きじゃなかったし そこへ並ぶほどの 欲も理由も見当たらなかった。



でも 食べることなら 大好きだから 嘘をつかなくて済みそうだ。だったら よだれが流れ出てきそうな 肉のおはなしを してみようと思い 頑張って想像をめぐらせた。


わたしは 肉が食べたい。
できれは 和牛の霜降りがいいな。 
やわらかくて 口のなかで とろけそうだ。骨の髄まで うっとりする。
想像だけでも よだれなのだから
味をしめてしまったものは 蜜の味わいといったところか と
そんなことを 話したら
君の夢は 肉を食うことか と大笑いされて 我ながらも可笑しくて
大笑いしてしまった。
わたしの夢は 肉を食べることになった。

モーちゃんは 蜜の味わいという ことばが 気に入ったようで
それは 蜜のようでいて 蜜ではないところが面白いんだが それが困りものなんだな と言って笑っていた。
どうやら その蜜の味わいというものが 落とし物をふやすらしい。
モーちゃんが嘆きながら その
ひと粒のごまを さがし回っている理由だ。



さがしている ごまとともに 
モーちゃんが眺めている世界では 
いのちに値段はないのだそうだ。
かけがえがないものに 値段は つかないのだというのが その理由で
その かけがえのなものが 値札を首からぶら下げて あちこちを 歩きまわるようになってから もやが立ち込めてきて かけがえのないものが だんだん つまらなくなっていったと話してくれた。 

世界のなかには よくできた仕組みがあって 置かれる場所は変わっても その性質は変わらずに 役にたつこともできるらしい。よい特性を 生かせるようにしたければ 足もとの土を 掘りかえしてみるんだなと モーちゃんは 教えてくれた。


モーちゃんと おなじようには 世界を 眺められなかったけれど 
君はなんというか 変わっていて 飽きさせない笑いがあるから という理由で モーちゃんのお店で 仕事をしてみないかと 誘われた。


嬉しくて 銭湯の風呂洗いでも もやしゃぶ店の皿回しでも なんでもやるつもりでいたのだが 立たされたのは よろず屋の店頭だった。


客寄せパンダになりそうな予感も 無くはなかったのだが モーちゃんに なりたくないものには ならなくてもいいと言われて 可愛いパンダになる夢を すこしだけ夢見ながら 未練をのこし 自分パンダ化計画とは お別れした。

したのだが
そのかわり うたえ と言われた。
なんだ そりゃ だった。
パンダに逆もどりかと 思ったら
うたう意味が ちがっていた。
それでも やっぱり
なんだ そりゃ だったけれど
それが ごまさがしに 役立ちそうだ
と言われたら モーちゃんに ついて
ゆきたくなってしまった。



この日を きっかけにして
まだ うたえないうたを 
うたうことが 夢みることとなった。
ごまさがしを 一緒にしながら
モーちゃんのあとを すこすこと
追いかけてゆくことになった。




お店の店頭で 眺める景色は
本当に 毎日ちがって 感じることも
毎日 変わっていった。



実際 売り買いされていなくとも
物のように扱われている 人間だって
存在しているのだということも すこしずつ わかってきた。

ATMのように 扱われているひとも
そうだったけれど 対等であるべき
関係であるはずのところへ 自分の思いどおりに相手を動かしたいという 感情が 横たわっているために 物のように扱われるひとが できてしまうということも 見えてきた。



もやのなかで 朝からどうにかなりそうな表情で ただ 稼ぎに出掛ける 父親族の姿を 仕事柄 目にすることがよくあったが それは いまにはじまったことでは なく それまでも
気づかなかっただけで あったのだ。


本当にどうにかなりそうで 弱っているひとは なんとなくわかってしまう。なんというか 満ちているものが感じられず めぐらない とでも云うのだろうか。あるいは 満たさなくともよいもので みなぎっているかの どちらかに 見えていた。足りないなにかが その過剰を生みだしたのかも知れないが 本人もきっと わかっているのだ。
こんなまま 生きていると 逝ってしまいそうだと。



お父さんたちは 大切な家族をまもるために 頑張っている。
お母さんたちも 同じである。
みんな 大切ななにかをまもるように
して 頑張って生きている。
それと同じように 大事にされたいと
も 願っている。


ただ それだけの願いが かなえられない 世界であったりすることに 
こころが痛みを感じて ズキズキと脈うった。
悲しい想いを 捨てる場所は あるのだろうか。夜空の星を見上げて ちゃんと 遠吠えできているのだろうか。



みんな 尊重されて あってほしいと願うし 尊重するということを 日常的に意識して 丁寧に生きていただきたいと願わすにはいられない。
けれど 尊重されているのかどうかすら わからなくなっているひとだって 生きているのだ。そんなひとが 恐ろしく善人だったりすると もう 世の中 訳かわからなくなりそうだった。


おもて向きの 裏の 裏の うらを
何回返したら その善きひとが 欺かれずにゆけるのだろうかと 思うこともあったけれど わたしでは どうにもならないことなのだと ゆっくりと
わかるようになっていった。



ひとの感情など 制御できないものなのだと 知れば知るほど 立ち入れなくなっていった。コントロールして 自由にしていいものは 自分の感情だけなのに それすらも ままならないのだから 謙虚にならざるを得ないということを 教えられた。



逆に 大切に扱われていたり 尊重されているひとも また なんとなく違う感じがするので それもわかってしまうものがあった。
自分で自分を大切にしていたり
かわいらしさを 感じさせるものがあり 楽しそうに見えたりした。



安定しているとは そういうことなのかと 気づかせてくださることが多くあって 接していると そのひととなりの 豊かな背景が垣間見えてくるものが沢山あった。 
恐らくは 揺るぎないわたし というものと 繋がっていたのたろう。


モーちゃんに言われた 
自分のうたを 自分のことばで 
うたう ということが
わたしのなかで
芽吹きはじめようとしていた。




ひと ひとり 誰にも見向きもされなくなり 駄目になっていったとしても
他人の人生であるから 好き放題に言われてしまう始末である。
こころないひとたちのなかで 孤独に
さまよっている魂なのだろう。
わたしはいつからか モーちゃんの店で働きながら そういうひとたちを
くすっと笑わせるということを やりはじめた。


楽しいと 感じる瞬間を その感覚を
忘れずにいてほしいと望み はじめたことだった。


今日という一日 ここで笑わなければ
その一日を 誰とも笑い合うことがなく 終えるのかも知れないと思うと どうしても笑わせたくなって 仕事をしながら 仕事とは関係のないことを 誰にも気づかれずに やりはじめた。
自分の身を切ってでも 笑ってくださると 嬉しくて わたしも一緒に笑えたのだ。



業績をのばしたくて 欲から出て
はじめたことではなかったのに そのうたになりそうなものを はじめたことは わたしにも 業績にも
いい影響を与えはじめてくれていた。
モーちゃんも そんな様子を眺めながら すごく喜んてくれていた。

 

さみしさを埋めるために おはなしをしに お買い物にきてくださるお客さまが いらっしゃるのも わかっているが 深く立ち入らない。立ち入れないのである。ひとさまのおうちに どかどかと 土足ではあがれないだろう。
だから そのかわりに ありがとう ということばに 元気玉を乘せて お渡しすることも やりはじめた。
ちいさなお店だったけれど 毎日 少なくとも 400回以上は 使うことばだ。

仕事をしながら 仕事ではないことをして 働いている。そんなひとが働いている モーちゃんのお店が 接点となり どこかの だれかが 生きてゆくための お役にたてているのであれば いいなと思うし 賞賛されるよりも 何倍も嬉しいと思えるようになっていった。


もやのなかで わたしが発する声は
大きくはないし 電話だと 家のひとはいらっしゃいますかと 言わせるくらいの 子供のようなキャラ声である。それを 頑張ってすこし張ってみても そんなに大きい声にはならないのだけれど 元気玉が乗っかって 届けられるものがあるのかも知れないのだから 頼もしくも 思えてくる。 


そんなことを やりはじめたからか
モーちゃんのお店を可愛がってくださる お客様が 途切れることなく 増え続けてるということが 本当に有り難すぎて ことばに置き換えられないものがある。


その 自分でいさせてくださっている
多くの方たちが 心から感謝してやまない日々を わたしに送らせてくださっているのだと思うと どう伝えればいいのか わからなくなるのである。 
その想いは ことばでは 伝えきれないもので いっぱいになろうとしていたのだから。



意識と変わってゆくかたち



物心がついたころには
転んでも ただでは起きあがらない ちゃつかり屋さんに なっていた。
転び損だなんて 不用意な言葉は わたしの辞書には どこにも書かれていなかったのだ。


だからなのか知らないが 本当によく転んだし 転ぶのも上手になった。
転ぶのが まちどおしくて たまらなくもなっていった。
痛い目にあったとしても その手には 温かみのある なにかをしっかりと
握りしめていたものだ。
ころぶ  
さだめよ。


わたしの辞書には なかったことばを
少しずつ ふやしてゆきたくなって
転んだら ぬくめて あたろう
こころの ひばち
そう 書いてみて さすがのわたしも
これはなんまいだーと あまりにひどくて 転がった。


なんまいだー とは もちろん
座布団のことである。



転んだあとの 火鉢の時間を
推奨しくて 書いてみたのだが わたしの力量では お笑いになってしまった。
望んではじめたことが 結果 ちがうかたちで 終わるという ありがちなパターンではあるが たまには そんなものも ほかのことに役に立つものだと わかった瞬間で 転がりながら 大笑いした。


火鉢には かなりの熱の入れようが
あって 今でも 大好きなアイテムの
ひとつでなのだが 
あのひとは 火鉢のようなひと と
例えて使ってみたときの よろこびは
たまらなくなるほどの ものであった。


温めてもらいたいと思い そばへ寄るのだが 温まりたくても 温まりきらせてくれない人というのを 火鉢のようなぬくもりだと感じたのである。



火鉢の盟友には 手揉みカイロというものもあり 火鉢と比べれば 局所的に ぽかぽかさせてくれるいい面もあるけれど 限られた時間でしか温もらせてもらえないので こころのなかで持ち歩くには あまりにも 不向きである。


それに 冷めてしまえば 捨てられることを考えると ひとを捨てカイロのように例えるのは あまりにも 失礼で どう転んでも使えない。
冷めた手揉みカイロを こころで持ち歩いても あたたかくはならないだろう。



ひとそれぞれに 適したぬくもり加減というものが あって
温まり過ぎることに あまり慣れていなかった わたしには 火鉢のような
ぬくもりが こころから 有り難かったのである。


寒くなって 寄り添っていくのだが
温まりきらしてもらえず 残念な想いとともに ほかのぬくもりを また 求めにゆくことになるのだが 火鉢のいいところは お互いの超えてはいけないところは 超えさせないし 越えてもこないところだった。


そんな火鉢が 大好きだった。
とりたてて言うと 電気火鉢である。
あれは わたしの心を 底のほうから じんじんと しびれさせてくれたものだ。


不用品のなかから 火鉢のように
自分にとっての 大切なものをみつけてしまったら その喜びを だれかに伝えることは 容易ではないのだろうが 転んだ手のひらで 自分でそういうものを おみくじのように引きあててきたのだから わたしにとっては 
天の恵みである。

 


大吉だろうと 大凶だろうと そんなものは さして関係ない。
それらは 絶妙に混ざり合っていて
天の恵みをを 豊かなものへと まわし続けてくれている。


わたしにとっては 天の恵みであっても
人さまには ありがたいものかどうかすら わからないのだから
伝えるもよし 伝えずともよしである。
そんな資質を 生かそうと 生かすまいと 風のみぞ知るなのだ。


恐らくなのだが このところ
なにも望んでいないは 絶望ではなく
すべてを望み 受け取れる ではないかと 思えるようになってきた。



望みは あるのだが それはかたちのないものの ちからのように沸き起こるものであり ことばに置き換えた
途端に 失速してゆくもののようだと
感じている。
だから ことばには 簡単に置き換えられない。
置き換えることで そのひろがりに
制限がかかってしまったり ある性質が抜け落ちたりして すべてではない状態で 伝わってしまうような感覚があって 簡単な気持ちからでは 置き換えられなくなってしまう。


だから 一行書けばいいものを すべてに近づけてみたくなり 時間をかけて 何行も書いてしまうのだろう。



仮に 辿り着きたい場所が ひとつあるのだとして そこが一番 望んでいるところであり ほかのものが そこへ辿りつくために 必要であるからこそ すべてを余すことなく得られるように 人生に配置されるのだとしたら それは どう表現するのだろう。 
わたしは それを何と呼べばいいのか
そのことばが まだ わからずに ただ 不思議な気持ちで 眺めている。



それは 一瞬の意識が配置させるのかも知れないのだ。だとしたら そのひろがりは どこまでひろがっているのだろうか。
あっと言う間に 地球を一周ぐらい
してしまうのかも知れない。
そんなものを 伝えるには 
兎をよんできて タンバリンを叩いてもらっても 伝えられないのだろう。



かさなり合う世界
そして かめ


ちびガメには 勿論 名前をつけた。
名前は China ちゃいな 笑
根拠なしで ぽっ❗と浮かんた名前にしては 国の名前をチョイスしたあたりが 妄想ルガーの弾丸らしい。
いつ飛ばされるのか 飛んでゆくのか
わからない。
。 


ちびガメと ちいさい水槽と ドーナツみたいなかたちの餌を買って るるるん💗としながら 帰宅。
途中で 上陸用のごっつい石も拾っておいた。
お天気のいい日だった。初夏。

おともだちを 連れてきたよー。
両親は えっ? と思ったみたい。
みたいって 顔をしていた。


おともだち という言葉を選んだ
わたしの心情を 汲んでか汲まずか
両親は やはり なにも言わなかった。なにか ことばを・・と求めていたのだが 求めたものとは ちがう空気が そこにはできあがっていた。



ことばにはしない気持ちを含んだ 微妙な表情をした両親が それぞれのこころの拠り所の糸を どこに結びつけるべきかを案じているような まだらな空気が 流れていたのだ。
そうさせたのは ほかの誰でもなく わたしであった。
しばらくの間 それを味わいながら
たくさんのことを 考えた。


沈黙とは 譲りあい思いやる ことばにならない気持ちの結晶が 浮遊する空間のようにも見えたのだ。 
それはそれで めまいがしそうに美しいのだが 身勝手な自分は どうして
妄想ルガーを生みだしたのだろう。
わたしのなかの なにで できあがったものなのか。なにを 発酵させてしまったのか。そんなことを考えた。


両親が わたしの気持ちを汲んでくれようとしていたのは 紛れもないものであった。
連れ帰った まだ見ぬ わたしが友と呼んだものとともに 可愛がってくださろうとしていたのだ。


わたしの気持ちを思いやり なにかを譲ったとしても 自分のなかから減るものは なにもないのだということを 両親は 知っていたのだろう。
ただ かたちを変えてゆくだけなのだと 信頼して 渡してくれようとしていたのだ。
わたしは もやのなかの みつばちに
泣きたくなるほど 会いたくなっていた。
ぶーん ぶん 
あっち向いてホイ。

ことばにしない あたたかいもので
包んで なにかを渡す方法など 数えられないほど あるのだろう。



誰かは 種を10個持っていて
わたしは 種を3個持っていたとしよう。おなじように よろこばせたいと
思ったとき おなじ方法で渡そうとしても 受けとり方も違うのだし 届きかたも変わってしまう。
だから すこしずつ 渡しかたをかえて届けてみる。その方法に 優劣などはつけられない。




おなじではないということは
ちかくにいて とおい感じがする。
けれど ゆきつくところは 同じならば とおくても ちかくになる。


ちがう方法で おなじところをめざす
どちらもが この世界から失われることなく 生かされるすべを バランスと呼ぶのであれば 同時に存在できるために お互いにまもるのだ。
それは 相手だけではなく 自分をも
まもることになる。
そのために 心があり その時々で
配置をかえるために 遠くへと
疾走することだって あるのだろう。


それは かたちを変えてゆくもので
今は見えている眺めが 
おたがいに ちがっても
いまのところの接点だというだけで
それだけであって つながっている。
ひとつである 世界である。




境い目という やさしさでできあがっている 垣根というものを 抱きかかえながら みんなが違うのだという
素晴らしい世界の意味を 誰もが
あらゆるところに しるしとして残してゆこうとしているのだ。


楽しんで 眺めていられるとき
そこに 勝ち負けはないのだろう。
わたしだけでは すべてではないし
みんながいないと豊かにはなれない。お互いさまに ちがうから
もっと すべてになろうとしているのだ。
のすのす。



両親とのあいだに まだらな沈黙の 空気が流れていたとき このまだらなものが わたしのために与えられた
試されている時 なのかもしれないと
想いが胸をよこぎった。
願いとはなにか と 問われたのだ。
妄想ルガーに ちびガメといった装備である。辿りつきたいところは なにかを壊すところではなかった。
こころのなかで 3秒ダッシュして
意識の配置がえを 試みた。


大いなるすべてさま
ひとつになりたい。
ことばにならない 想念の垣根をかき分けて ただあるのだというところへ
辿り着いたとき 
祈りのアクセルを踏み込んだ。ただ 静かに目を閉じて
わたしは祈りと同化した。



わたしから 放たれる波状のものは
ことばには 置き換えがたい 想い
そのものとなり 静かにゆっくりと
世界を まわしはじめてゆく。



その瞬間からは なにも考えるな。
意識することすら 無用である。
一瞬の強い想いが 飛び散って 
すべての配置が 瞬間的に広がった。想念でブレーキをかけたりせずに
そのひろがりに 
制限をもうけずに ゆくのだ。



なにが起きているのか わけがわからない感覚とともに 
ただ 感じていればいいのである。
そうしていれば 理解という思考が あとから のこのこと 申し訳なさそうに 少し遅れてやってくる。


わたしは そっと目をひらいた。
手のひらが ぬるりと汗ばんで 右手に握りしめていた妄想ルガーが 滑り落ちそうになっていた。
すかさず 左手に握っていた石で なんとか受けとめたが ぱふぉん♪ と変な音がして まだ 出待ちタイムだったはずのカメが 元気よく飛びだしていった。



沈黙の祈りに 幸運が微笑みかけてくれたのだ。3秒ダッシュありがとう。
カメが父の目の前を かすめていったのだが 奇跡の瞬間を飛びながら カメが父に向かって ウインクをしてみせた。ちゃいなベィビー イカした奴だぜ。カメは ひとつになるために
飛んでいったのだ。



美しい妄想の花がひかりを 撒き散らかしながら 開花した。
しゃりん しゃりんと ちいさな鈴の音が 聴こえてきた。それが 幾重にもかさなりながら 新緑のさらさら流れるような やさしい響きとなって
山波のようになったとき 宙を飛んでいたカメが 母の手のひらめがけて 舞い降ちるように ころりと着地した。

あら、かわいらしい。
父も 鼻の下をのばしていた。
つかみは 上々
これは おいしい あられだ。
のすのす。


わたしはというと 素直によろこんでいた。
妄想ルガーから 飛んでいった
ちゃいなが 配置換えした意識の中で
ポコンと的に当たったのだ。
苦心して 仕込んだ甲斐があって 
わたしのしつこさも 味わい深く浮かばれたというものだ。
天のめぐみ ありがとー。
わたしはすこし 豊かにさせていただいた 照れくささに 揉みくちゃにされながら 笑っていた。



妄想ルガーは消え去って カメは
ただのカメに戻り カメらしい足どりで
絨毯のうえを のそのそと 歩きまわっていた。
わたしは カメを拾いあげ 感謝とともに 水槽に浮かべてあげたのだ。
わたしたちは 個でもあり 全体でもあることを 飛んでいったカメが 宙に描いてくれたような 気がしていた。


こんなふうにして わたしの成長とともに ちゃいなの住処が わが家となったのだ。
仙人さまたちも 微笑みながらよろこんで 迎えてくださった。
あー よかった。

ここまで 長かったー。
疲れさせて ごめんなさーい。

のすのす。



揺れる天秤



爬虫類をお迎えするのは 初めてで
触れ合うのに すこし緊張した。
遠い記憶のなかで 土色の水たまりに
放したアマガエルが 浮かびあがってこれなかったことが その 理由になっていたような気がするのは ただの思い込みだろうか。

わたしが緊張していたせいで ちゃいなに あまのじゃくを装わせてしまっていたようだ。
たのしいはずの ごはんにぱくつく姿を なかなか見せてもらえなかったのが とてもさみしかった。
それは わたしをまるで 枯れて乾いた花のように 感じさせるもので 
なんだか 急に老成してしまって戸惑いながら 手足を動かしてみるときとは こんな感じになるのだろうか と
思わせた。



ひとえに わたしの緊張が その原因となっていることは 明らかであったのだが エネルギーが通い合わない状態でそのままいると 自分がどんどん枯れてゆき 土にかえってしまいそうで 嫌になり なんとかしようと思いはじめた。


カメとわたし という名の天秤が 緊張という錘のもとで 平衡をもとめて
揺れ動いていた。


あげる 食べない 
よそ見をする 餌がなくなっている。
実に つれない表現なのだ。
しばらくは ちゃいなと 天秤のうえで遊んでいたのだが やっぱり ぱくぱく食べてよろこぶ おいしいかおが 見たくなり 餌をかえる作戦をうつことにした。



第一次作戦では 乾燥糸みみずの力を
借りたのだが わたしの糸みみずへの恐怖心が あまりにも大きくなり過ぎて ついには 涙とともに それをまとめて水槽にバラ撒いてしまうという奇行に 走ってしまった。 
それで敢えなく頓挫してしまったのだが その後始末に 震えながら奔走したことは 安易に想像できるだろう。

わかったことは カメは動物性のものを好むということだった。 
それだけでも まるもうけな気分だった。気分だけでも 濡れ手に粟だと いいことが起こるものだ。



水槽に藻のたぐいを 入れてみようと
思いたち 熱帯魚の専門店へ買いに出かけたら カメ用の乾燥えびが 棚に置かれてあったのだ。缶詰めになっていて 上下に振ってみると カサカサと乾いた音がした。


なんだか 魅惑的だな。
カサカサ。
えびの カクテルシェイカーみたいで
気分が 上向きになってきた。
何度 振って確かめても カサカサと
手放したくない 音がした。
なんだか うまくいきそうだ。
そんな根拠なき理由から
第二次作戦は その 乾燥えびに 委ねてみることにした。
ちゃいなのハートを カサカサと
くすぐってくれたら うれしいな。
のすのす。


カメ用の乾燥えびではあったが なかなかのものだった。なかなかとは 香りよし おいしそうで 食べたくなるという意味の なかなかだ。
缶のフタをあけたら ちゃいなの爬虫類の ぼーっとしたような瞳が ギラリと光り輝いた。えび とは言わないのだが なぜだか知ってる あの香りというやつだ。


野生の本能には 抗えず ちゃいなは
えびにぱくついて 目をギラギラさせながら 頬の筋肉をあげていた。
カメも ご機嫌になると笑うようだ。
わたしの作戦が 功を奏したのか カメとの距離が縮まった。それからというものは わたしの顔をみるたびに えびが見えるようになったらしく 目をらんらんとさせながら 笑みを浮かべるようになったのだ。
カメとわたしという天秤に 乾燥えびは 最高の配置となった。
のすのす。


彼らとは 主にことばにならないもので コンタクトした。
意識をつかう訓練には 最適だ。
初めは わからなかったが わからなくても わからないなりに 意識が
飛んでくる感覚が 少しずつわかるようになっていった。
お互いが エネルギー体として放っているものが どういうものか 思考するのではなく 観察し ただ感じ合うのである。
わたしは なかなかうまく 意識を
飛ばすことが できなかったが
おたがいに 鼻を突きあわせて 笑えるところまでゆけたのだから たいしたものである。



いつのまにか ちゃいなは たくましく成長していて ついには わたしに
えびの映像を 届けてくるまでになっていた。
のんびりテレビを観ていたら 脳内に
ぽんっ とえびが突然 浮かびあがるのである。 おそろしや〜であったが 
すごいな ちゃいなと尊敬した。
わたしには そんなすごい技はできなだけに なんだか 飼っているというよりも お仕えしている気分に近くなっていった。

そんなふうに 日々積みあげる些細なことが 信頼とか大切とかいう気持ちを 膨らませてゆき お互いに欠かせない存在であることを 学んでゆくこととなったのだ。



毎日の日光浴はもちろんだったが 
お天気がよくない日は お風呂にいれて 甲羅をこすって 苔をとってさしあげたりしたものだ。
お湯につかって 気持ちがよくなると
カメさまは手足をパーにひろげて伸ばし
全身で気持ちがいいと伝えてくれる。
そんな姿を見ていると わたしの
カラダもパーになって 緩んで気持ちよくなってゆくのだった。 



お世話は わたし一人でしていたので
わたしのカメさん ということばを
つかってしまったことが あったのだが 父にそれを聞かれてしまい 
え とも う ともとれるような 
唸り声をあげさせてしまった。



あれは そうではないと 伝える意味の唸りであった。本物の唸りである。
なによりも 表情が そうではないという気迫で 満ちていた。
わたしは その唸りによって 父も カメを可愛がってくれていたことに気がついて 悪いことをしたなと反省した。


唸るときには 唸らねばならぬ。
唸れよ されば 報われるとは
ことばではないもので そのとき
父から受け継いだ教訓である。

父もちゃいなを ぼんやり眺めながら
日常を離れ カラダを緩める気持ちよさを 楽しんでくれていたのだ。
のすのす。


爬虫類の世界から わが家へと派遣された ちゃいなのエネルギーの波形は 独特で本当に馴染みがなかったのだが、お互い繋がったり 繋がらなかったりを繰り返すことで すこしずつ
より深く 分かりあえるように なっていった。



きっと ちゃいなも わたしというものをとおして 人間というものについて 学んでいたのだろう。
お互いのこころの 凸凹した空間を 埋めあえたのだから おともだちになれたのだ。


そんな暮らしが 一年ほど経ったころ
ちゃいなは 自然のちからを利用して 仲間をよびよせてくることとなった。
いのちに値段がつけられていない
自然の大使館から 遣わされたカメ
たまちゃんが とある池のほとりで生まれることを どうやって知り得たのかは 知らないが
その仲間を わが家へと引き寄せた。



ちゃいなの意識が わたしをその一部として 動かしたのだとしたら それは 割れた茶碗がもとに戻るほど すごいことだったのかも知れない。
モアイさまが さがしものの
ひと粒のごまを ひらって
ようやく見つけたぞー と 叫ぶ声が
どこかで聴こえたような 気がした。



たまちゃんと ごまの畑


その日も よく晴れた 休日であった。花粉のせいで くしゃみごっこがピークに達したころに 池に行こうと小池さんが 迎えにきてくれた。
小脇には ティッシュの箱を抱えていた。
小池さんも ティッシュとは おともだちだったようだ。
おたがいに くしゃみをしながらも
気持ちよく笑い 鼻水を拭きあった。


わたしは すこし賢くなっていたので
仙人さまたちに 許しを乞うてから
小池さんと 池へ出かけた。
行き先を告げたからか 仙人さまたちも 安心して 微笑んでくださった
二人して並んで 手を振り 見送ってくださる姿は やさしい風のようだ。


池には 先客がいて ベンチのあたりを 忙しそうに 歩きまわっていた。
こんにちは と 声をかけると
目を白黒させながら こちらを見た。
忙しそうですね 何かあるんですか?


彼は 忙しすぎたのか こたえるかわりに 無愛想に ひとこと ぽっぽ郎 と 名を告げた。


彼らは たくさんで 群れていたが
みんなが ぽっぽ郎だった。
ぽっぽ郎たちが うようよと 歩き回っていた。メスはどこにいるのだろう。
のすのす。


小池さん ぽっぽ郎に 囲まれましたね、と声をかけたら 小池さんは じっと 思いつめたような表情で 腕時計を覗きこんでいた。 
時間だ と つぶやきながら ベンチに腰をぬかすようにして 腰かけた。
12時だった。


うららかな 陽ざしのなかで
近くの教会から 鐘の音が がらんごろんと 響きわたった。
ぽっぽ郎たちも 歩きまわる足をとめて その響きに 首をかしげながら
耳をかたむけていたようだった。
鐘の音だけが響く 静寂がひろがっていたのだが その静寂を うちやぶるように 小池さんが ひとこと
ラーメンと つぶやいた。



ぽっぽ郎たちは 驚いた顔をして 
いっせいに こちらを向いた。
驚きすぎて さらに 目を白黒させながら 慌てふためいて 大暴れするかのように転がりながら そそくさと茂みのなかへと 消えていってしまった。


小池さんは 猛烈にお腹がすいていて
ラーメンが食べたくなったのだ。
小池さんの 呪文のおかげで 池のゲートの鍵がひらかれた。
池のほとりの地面が 視界の隅のほうで ゆっくりと静かに動きはじめたのだ。
のすのす。


地面が うごいた。
そう 感じたのだが 見てみると
ただの 地面だった。
おかしいな と思って ぼんやり池をながめていると また 地面がゆっくりと 移動した。


わたしは くしゃみごっこをし過ぎて
ついに 幻覚までみえる境地へと 飛んでいってしまったのかと 小池さんの顔をながめて 確かめてみたが、いつもの小池さんが 鼻水をたらしながら お腹をすかせて笑っていた。


風のない 小池さんとふたりだけになった 静かな池のほとりへ
しろい ちょうちょが ひらひらと
飛んできた。
そうだ ちょうちょ日和だったのだ。
家に帰ったら カレンダーにちょうちょの数を 書きこむ日だ。


わたしは いつものように ちょうちょの数を 数えはじめた。
ひとつ ふたつ みっつ よっ・・
なんだか 眠くなっちゃった。
小池さん お腹すいてるのに ごめんねー とこころのなかで 謝りながらも あまりにひざしが気持ちよくて
つい うっかりと うとうと居眠りをしはじめた。



視界のなかには
いつのまにか ちょうちょが大量に
あつまってきていた。
たくさんのちょうちょが とびまわり
ひらひらと羽をはためかして
ふわふわと 地面にちかい空間を
移動していた。
それに つられるようにして
わたしの意識も かれらの空間へと
ゆっくり移動していった。


見覚えのある おじいさまが
ふたりで 熱心に 会話をしていた。
背がたかく 割腹のよいおじいさまは
インドの川のおはなしをしていて 作務衣を着たおじいさまは 大事に育てていた バジルの葉とバッタのおはなしをしていた。


一見 なんの接点もない会話のようだったが 楽しそうに ふたりで笑ったりしながらも 頷き合ったりして はなしをしていたのだが もはや会話とは呼べないような 進行で 同時にちがうことを 話しながら ことばのやりとり楽しんでいた。



それでも 会話が成り立つんだなぁと 楽しみながら ふたりのおはなしを それぞれ聞いていると 
ふたつのおはなしの声が かさなったときに ちがう音になって聴こえはじめた。よくわからなかったが 最初は
あ とか う と聴こえてきた。


まるで 重ね絵みたいだ。
同時に重ねて聞かないと わからない仕掛けが 施されているようだった。
注意深く 耳を澄ませていると
重なったタイミングで すこしずつ
何をはなしているのか わかるように なっていった。
それは ことばの音あそびのようでもあり 響きが どこかへぶつかって 反射されなから 重なって 空間を
跳ね回るようにして 伝わってきた。


おじいさまたちが それぞれ発した
ことばの音が重なり合って はじめて
なにやら 瞬間 と聴きとれた。
わたしは 慣れていないので 最初は
瞬間移動のおはなしかと思ったのだが そうではなくて
ふたりで 循環だと言っていた。


自然は恵みを 与え続けてくれているが 自然の循環との相互作用のなかで ひとが 受けとったもののかたちを どんなものに変え どんなふうに循環させてきたのかを 熱心におはなししていたのだ。
おじいさまたちは 自分たちも
自然の循環の一部だからと 言っていた。


ひとつだけ とりあげて眺めてみても
みんな つながっているからなぁ。
細かくきり離せないから 全部でひとつとして 心から見えるようにならないと いい循環は できないぞ。


それは わたくしが という想いからではなく これまで 自分をつくりあげてきてくれた すべてのものを
めぐらしてゆくのだという想いから
やってゆかないと うまくはゆかないのだと 言っていた。



おじいさまたちが 眺めている世界は
分断されているものが どこにもない
世界だった。



おじいちゃん ありがとう。
循環なんだね。
わたしは それをやりたかったことを
思い出した。
わたしは それをやりたくて
ここに配置されていたのだ。


おじいちゃん わたし どうして
忘れたのかな。
すべてのものが すべてな状態で
ひとつとして 配置されていてた。
めぐらせたい。 



おじいちゃんたちは ふたりで
わたしの頭のうえに 手をのせて
やさしく 撫でてくださった。
気持ちよくて あたたかかった。


忘れたから 思いだしたんだよ。
忘れても なくならないもので
それは ずっと あったんだよ。
おじいちゃんたちの 手のひらの
ぬくもりが わたしの手のひらの
ぬくもりになった。

撫でてもらって 気持ちがいい
ぽかぽかだ と思って 目をさますと
小池さんが わたしの頭を
やさしく撫でてくれていた。
小池さん やさしくしてくれて
ありがとう。
だからなのか知れないが
きょう 出会えた ちょうちょの数は
∞ だ と思ったのだ。

沢山のちょうちょが ふわふわと
飛んでいたけれど
山のむこう側や 海の向こうで
そして 地球の裏側で飛んでいる
見たことがない ちょうちょとも
つながってると思えたから 
∞ と書きたくなったのだ。


ひとつである 世界が わたしを
やさしく包んでくれていた。
分断は わたしたちの意識とこころが
時間をかけて 生みだしたものなのだろうか。
もとは なかったものを つくりあげてしまったのだとたら それは もやとともに どこかで消えてしまっても
幻想を見ていただけなのだと 感じて
終わるものなのかも知れないと 思った。
 

家に帰って ごはんにしよう。
そう思ったとき ピンポン玉くらいの
土の塊が 池の水まであと50センチ
くらいのところまで ずずっと移動していった。



やっぱり なにかいる。
そっと 近寄ってみると 卵から
飛び出したばかりの 土にまみれた
ちいさなカメが 池を目指していた。



ぽっぽ郎たちが 消えていった茂みからは 次々とちいさなカメが 卵を
飛び出して 匍匐前進をはじめていた。ちいさな戦車が 操縦に不慣れな
キャタピラーを動かして がっくんと
停止しては また移動しはじめる そんな 愉快な光景だった。
彼らは 生きるために前進していたのだ。


 
わたしは 先頭を走っていたカメさん
に 介入した。手をのばし 拾いあげてしまったのだ。なぜ そうしたのかは わからなかったが ふいに頭の中に 頬の筋肉をあげた ちゃいなの顔が どーんと すごい重量で 浮かびあがった。



なんだか 拾いあげたカメを 家に
持ち帰らなければ わたしが
ちゃいなに 喰われそうな勢いがあったので 怖くなり カメさまのために
たまちゃんと名前をつけて 家へと
連れて帰ることにした。


たまちゃんは こんなふうにして 
わが家の 家族となったのだ。



たまちゃんは 授かりものだったから
脳内がもやもやには ならなかった。
ちゃいなとは すこし種類がちがったようで 目を閉じた顔は ちゃいなよりも ずっと ガメラに似ていて カメながらも 精悍な顔立ちをしていた。

ちいさいだけでも かわいいのに
輪をかけて いい顔立ちだ。
惚れ惚れと たまちゃんを眺めていることを ちゃいなに察知され 嫉妬したちゃいなが たまちゃんのしっぽの先に 喰いついた。



あー!と思ったが 喰われたしっぽは
戻らない。ちゃいなは たまちゃんのしっぽの先を食べて 自分のからだの
一部にしたのであった。
これは 配下に置いたという意味だろうか。水槽を分けておけば よかったと 少しだけ悔やまれた。
のすのす。


かめたちの うた


うちの家は 客人が多い家だった。
その日は 珍しく わたしの客人が
3人うちへきて サークルで予定されている交流会の企画を 練りあげることに なっていた。

紅茶をいれる準備をして 皿には
お菓子をいっぱい 盛っていた。
みんなが集まり どんな趣旨で 何をやるか 話が盛りあがったころ
ちょうど 3時になったので 紅茶を
いれて お菓子を食べ始めた。

そのときだ。
なんか変な空気を 感じたのだ。
ふと 水槽に目をやると 
二匹のかめが 同時に 立ちあがって両手を振っていた。
初めて見る 姿だった。
あとにも さきにも 立ちあがったのは このときだけだったのだが
彼らは両手を振りながら 笑っていたのだ。
楽しそうな雰囲気が 彼らにも 伝わっていて かめは 両手を振って 笑みを浮かべた かわいい顔で 
わたしたちと ひとつの輪になろうとしていたにちがいないと
いまでも 思っている。

かめも 立ちあがるのだ。
妄想だと スクワットしていたと
書こうと思っていたけれど
それは またの おはなしにしたい




わたしが 感じとっている世界は
わたしが いなくなったら 消えて
ゆくものかも知れないけれど
かたちを変えて 風のなかで
めぐる水のなかで 漂うように
めぐりながら
誰かのこころを 優しく包みこんで
ゆけたら いいなと思う。



そして こう うたっている。
すべてである あなたのおかげで
わたしは ひとつでもあり
すべてにもなれたのだと。
感謝を込めて。



























 














 











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