【経済のモノサシ】 ポラニー「大転換」1944 (4)
生産要素の制約が社会防衛を要請する
ニュー・ディールまでの米国では、保護主義的な立法や行政がほとんどなかった。経済学はこれを自己調整的市場の模範とみなす。しかし、初期の米国では財・労働・土地・貨幣にボトルネックが生じなかったにすぎない。
つまり「生産要素に一切のボトルネックがなければ自己調整的市場は社会問題を起こさない」とは言えるかもしれない。しかし、生産要素の需給に限界が生じると、結局はニュー・ディールを必要とした。これは、むしろ「生産要素に限界がある市場は常に社会防衛的保護を必要とする」ことの証拠だ。
経済学はどこで間違えたのか?
金本位制は1879~1929年を通じて世界の共通制度となった。しかし、金本位制のもとでは、国内の財政金融政策と為替安定化政策はしばしば逆方向に政策圧力を生む。結局、諸国は海外市場を拡大しつつも保護関税を強化するという経済学的には矛盾した行動をとる。こうして金本位制は世界経済崩壊の制度的源泉となった。
経済学はどこで間違えたのだろうか? 需要と供給が価値システムを媒介にして均衡するという自己調整的メカニズムはどんな社会でも存在するに違いない。しかし、需要と供給を生む動機には、貨幣的動機と非貨幣的動機(情緒的動機)があり、現実の社会では非貨幣的動機のほうがしばしば優勢になる。経済学はこのことを見落としている。
貨幣的に自己調整される市場は、理論的には均衡する。ただしそれは、国民が、耐えがたい困窮と屈辱に耐え切れば・・、という条件付きだ。現実には、国民の行き場のない不満と怒りは戦争という、自己調整的メカニズムの破壊にいたる。このことを見落としている。
経済学は中産階級に仕え、中産階級に否定された
経済学は、自己調整的市場というユートピア実現を自己目的化した。自己調整的(自由放任)と言いつつ、独占や労働組合の規制は歓迎した。金本位制維持のための政府や中央銀行の介入も歓迎した。国内経済の崩壊や国民の窮乏も調整過程の一部として許容した。自由放任というユートピア思想は社会防衛的な立法や行政に何度も譲歩を重ね、最後には、金本位制維持に執着することだけに矮小化した。
これほど綻びだらけの学問がなぜこれほど政治に影響力を持つことができたのか。結局「経済学とは中産階級擁護の理論体系にほかならない」ということに尽きる。19世紀、中産階級(=金持ち)は伝統的階級に置き換わり、政治(つまり議会と政府)を支配した。中産階級のものとなった政治が中産階級を擁護する学問に賛同するのはあたりまえだ。「たとえ社会が崩壊しても市場を守ることこそが、社会のためである」中産階級のためにこのように理論化することが経済学の役割だった。
ところが戦争で兵士となるのも、大量生産される商品を購入するのも大衆だから、実際の社会崩壊に直面して、中産階級と大衆の対立は袋小路にはいる。そのときに中産階級が選んだ選択肢が金本位制からの離脱と集産主義的政治体制であり、国による程度の差こそあれ経済的自由主義の否定だった。中産階級を擁護する経済学を、最後の最後に中産階級自身が否定した。
ファシズムは大衆運動ではない。大衆運動には権利や秩序に対する要求、つまりビジョンがある。ファシズムは、まず、現状の社会秩序や体制に対する解決策なき非難の蔓延として始まり、既存秩序のビジョンなき破壊にいたる。既存社会の自己調整メカニズムの機能不全が根本原因なのだから、既存社会を維持したまま解決することはできない。だから、とりあえず既存社会秩序の転覆や破壊を目指す。
そういう意味では、米国のニュー・ディール、イギリスの挙国一致内閣、ロシアの社会主義、ドイツや日本のファシズムは同じ方向性を共有した政治傾向であって、国ごとの袋小路の深さの差にすぎない。両大戦の間に生じた世界秩序の袋小路とは金本位制のことだ。諸国は金本位制維持のためにまず国民福祉を犠牲にし、さらに民主主義を抑圧し、あげくのはてに金本位制そのものまで廃棄した。
崩壊からの再建
19世紀文明は崩壊した。経済システムが社会を規定するグローバル社会は、やはりユートピアだった。なぜならば、社会(概ね国家でもある)の擁護なくして市場が存在しえないことを、この100年の歴史が繰り返し証明しているからだ。我々は、社会が経済システムよりも優位に立つ転換期を迎えている。
このような転換期に直面する人々の不安のいくつかに答えておこう。転換を通じて、労働、土地、貨幣は商品であることから解放されるだろう。市場は自己調整的であることをやめるだろう。だからといって、賃金格差や多様な生産物市場がなくなるわけではない。市場の調整機能は依然として経済の重要な要素であり続ける。ただし、賃金を含む労働条件、土地取引、主要食料品の生産・分配などの多くが市場の外で決まるようになるだろう。
貨幣については、金本位制が恒久的に廃止され、規制のない自由貿易という幻想も消失し、現在すでに進みつつあるように、国家間の協調的統制を前提とするようになるだろう。
最後に、規制、管理、計画化がつくり出す自由は真の自由ではなく、隷属の偽装であるという自由主義者の批判に答えておく。この批判自体が、市場的社会観が生み出した誤解だ。社会の枠組みこそが自由を擁護すること、社会無くして自由というものが無いことは、論理的であるばかりでなく、歴史的に見ても社会の外に自由が実在したことはない。我々は、より良い自由を求め続けることは間違いないが、それは社会の否定ではなく、自由を擁護する社会を求めることと同じはずだ。