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【経済のモノサシ】 ポラニー「大転換」1944 (3)

コミュニティ無き労働の悲惨

 集産主義的立法やその原因となる社会防衛運動を、大衆の経済的利害のみに起因していると思い込むという点では、経済的自由主義者も社会主義者もまったく同じ誤りを犯している。古来、労働とは「誰かのために働く」ことだった。労働は文化でありコミュニティだった。16〜19世紀を通じて賃金労働が労働者からコミュニティを奪ったせいで、史上はじめて「賃金のために働く」ことが世界常識となった。
 綺羅星のごとき詩人、思想家、作家が産業革命の悲惨を弾劾してきた。にもかかわらず、経済学者は「産業革命のあいだも実質賃金と人口は増加していた。ゆえに、産業革命は労働者を幸福にした」と主張した。経済学が貨幣を通じてしか社会を観察しないゆえの典型的な勘違いだ。

 コミュニティ無き労働の悲惨は、いまや世界の植民地、先住民族に広がっている。しかしそれは過去2〜3世紀、イギリスが自国民で実験してきたものだ。植民地経営とは経済的自由主義者が、過去イギリス国民を相手に行ったことの国際的な再現だ。

社会防衛が市場を崩壊から守った

 自己調整的市場は、① 個人所有、② 契約の自由、を前提とする以上、労働市場が、それまで人間を飢餓から守ってきた血縁、地縁、同業者仲間、信仰集団などの非契約的組織を壊滅させることは必然だ。
 イギリスでは1830年前後に、孤立無援の労働者が個人として飢餓に対処しなければならないことが法制化された。その結果、己の孤立無縁を自覚した労働者が100年にわたる労働運動を通じて地位向上するという労働組合主義を生んだ。
 一方、ヨーロッパ大陸では農奴が賃金労働者に昇格したうえに、貴族階級に太刀打ちできない中産階級は労働者と同盟する必要があったので、労働組合主義ではなく、社会主義が大衆の政治手段となった。
 経済的自由主義者は、ヨーロッパ大陸の市場化がスムーズだったことをもって、イギリスを市場化の失敗事例として片付けたがる。しかし、政治手段が労働組合主義か社会主義かの違いだけであって、どちらの場合も市場拡大のスピードに対する抑制力があったからこそ市場が拡大できたということ、つまり市場の拡大には集産主義的な立法や行政による拡大スピードの抑制が必要だったことに、変わりはない。

土地の商品化が国防と自給自足を破壊する

 土地の商品化とは封建制解体の別名だ。封建制解体はイギリスと西ヨーロッパの都市部で14世紀にはじまり、約500年後に完成した。土地は物理的に動かせないが土地の生産物は移動できる。つまり物流と貿易は土地の移動とおおむね等価な効果を経済に及ぼす。ということは、工業資本家も農業資本家も世界の生産最適地を購入して、貿易することが原則となる。つまり世界的に土地が商品化する。
 ところが、住民の活力や耐久力、食料供給、防衛手段の質と量、森林と土地によって形成される気候と自然災害への耐性、これら全てが土地という要素によって形成される。しかも自給力、防衛力、災害耐性など、どれをとっても市場の需要供給によって調整できない属性だ。これら一切を無視するということが、土地の商品化に含意されている。

 事実、第一次大戦後に、自由貿易と自給自足が両立できないことが国防と国民福祉の深刻な問題となる。中産階級は当初、安いパンを求める労働者と同盟して農業市場開放を推進した。しかし、経常収支赤字で食料不足とインフレが続くと、労働者はストライキを通じて市場に歯向かう。
 この場面で中産階級は小農階級と組む。農民は生産物販売に市場を必要とするからだ。しかし、同盟者を誰にしようと、経常収支赤字国が困窮することに変わりはない。経常収支改善のために国内の金融・財政を引き締めると国民はさらに困窮し抵抗する。
 袋小路に追い込まれた中産階級は、自らファシズム政権の担い手となって既存の国際秩序を破壊する。これは、土地の商品化、ひいては農業市場の解放が自国の自給自足と両立しないどころか、しばしば破壊してしまうことの帰結だ。

市場の下僕となる政府財政

 金本位制として顕現した価値システムの擬制商品化は同時に副作用ももたらした。① 人口と生産の増加に対して金準備の増加が追いつかないので、通貨量に常に引き締め圧力が生じる。② 引き締め圧力に抗して通貨量を増やせば取引量(=債権債務規模)は成長を取り戻すが、金準備と通貨量の乖離が拡大して最後は暴落する。
 これらすべては自己調整的市場という非現実的理想を実現するために、貨幣を擬制商品化したことの帰結だ。通貨量を適度に膨張させつつ信用崩壊を防ぐうえで中央銀行の役割はこのうえなく重要になる。しかし、中央銀行が通貨を制御しなければならないこと自体、自己調整的市場という経済原理の矛盾を露わにするものだ。

 金本位制は世界通貨にもっとも肉薄した代替メカニズムといえる。しかし、世界通貨が必要な場合とは、貿易と国際金融に限られるのであって、おおかたの国内経済には政府保証の通貨があれば十分だ。
 政府が財政で国内通貨を支出し、徴税その他で国内通貨を回収すること、これが政府保証の具体的メカニズムとなる。世界通貨と国内通貨の為替は無視できないものの、だからといって、両者を自己調整的市場に完全に委ねる必然性はない。そもそも世界通貨と国内通貨はそれを支配する経済原理が異なるのだから、両者が為替市場で最適調整される保証はない。
 しかし、このような問題を経済学はほとんど研究していない。その結果、政府の財政と徴税は主体性を失い、世界市場を安定化させるための調整手段となってしまった。私が「現代社会は市場によって調整されるようになった」というのはこのことだ。

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