「父として考える」東浩紀・宮台真司
批評家の東浩紀さんと、社会学者の宮台真司さんが父親になられてからの考察を対話形式にしてしたためたもの。2010年出版。論壇では時の人であったこともあり、従来からお二人の議論を追っている人には目新しさはないのかもしれないが、私は興味深く拝読。
「大きな政府」ではなく「大きな社会」という相互扶助のネットワークを構築していかないといけない。だけど、絆を構築・維持するには相応のコストが必要で、その覚悟が日本人には希薄。今後は個人のスキルを磨くことよりも、スキルのある誰かと繋がれるコミュニケーション能力が大切で、そうした能力を培うことが教育の目的…というのが大まかな議論の流れかな?
上記議論の多くを構成しているのは宮台氏の主張で、私の印象では、お子さんができたからこう主張しているのではなく従前からのお考えを披瀝しているだけに過ぎなさそう笑。なので、父になったからといって新しい発想に立ったわけではなく、単にこれまでのお考えが強化されただけなのかも。
本書は後半になるにつれて、「父として考えているのはどの部分?」と首を傾げながら読み進めることが増えるので笑、その点は注意。前半の、子連れでも行きやすい郊外型ショッピングセンター必要論とか、子とのふれ合い時間を増やすために狭小でも職住近接肯定論は、父として考えているのかもしれないです笑
印象的なのは、子どもを作らない・作れない人は、その分、社会や共同体を維持するためのコストを余計に支払うべきという両氏の主張。これは岸田政権による「異次元の少子化対策」を待つまでもなくツイッター上で散見される「子づれさま」論争への答えのひとつでしょう。子どもがいなければ共同体は維持できないのだから、その負担を保護者にだけ負わせ、子のない方にフリーライドさせることは不公平という主張は、子持ちの方々は口に出さないまでも薄々みんな感じていることなのではないでしょうか…子を持たないことには人それぞれ事情があるので、普通は口にしませんけれど。
社会階層によって分断された社会に生きるのではなく、様々な背景を持った人々が交流する空間が大切であり、そこで生きるためにコミュニケーション能力が必須のスキルとなるというのが宮台氏の主張。ただ、あとがきではご自身の幼少期(京都にお住まいのころ、ヤクザの子どもとも交わっていたとか。)を論拠にされていて、残念。すでに存在しないものを懐かしみ、「俺が小さい頃は良かった」的懐古主義的な発想という後味になってしまいました。
塾に行くよりも、複数のコミュニティに所属したり、人的交流を通じてコミュニケーション能力を磨く方が大切だし、現に就活でもそういう人が生き残っているという両氏の主張。これも、
結局両氏が高学歴で、低学歴の現実や気持ちを知らない立場からの理想論では?という印象です。親としてはどうしても子の将来に保険をかけるため、塾に行かせたくなりますよね汗。でもそれは、現在のところ、学力の向上の方が資源投下に対するリターンがより明確だからなのかも。コミュニケーション能力が高いからといって、その出口はなかなか見えにくいですものね。とはいえ、宮台氏も指摘していますが、特にエグゼクティブの転職ではリファラル採用が当たり前になってきていると言いますし、納得できる部分もあるんですけどね……いやほんと、子育てって難しい…
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