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「新月が来る」夏夜咄三十一夜 エピローグ

文披31題 その三十一夜
「またね」


二人は富山駅のホームにいた。すぐに京都行きが入って来た。雪乃は何かを振り切るかのように電車に乗り込んだ。座席に座りこちらを見て口元が何か言っている。それが分かり手で合図して見送った。京都行きがゆっくりとホームを滑って行った。

あれ以来、私は田舎に戻り赤城山が見下ろす里山を背に籠り(こもり)渡良瀬川の流れを話し相手として、親しみ遊ぶ歳月を重ね過ごした。仕事と師匠の用事で呼ばれる時だけ根津に出掛けた。しかし神楽坂にはついぞ、足を向けた事はなかった。

富山駅で別れ際に交わした『またね』の言葉はサヨナラと言えない若いふたりの諦め呟きだったのだろう。
今、私はあの頃の師匠の年齢を超えたが、師匠からあの世から話し相手として呼ばれていたのか、懐かしく思い出すのです。もし、いま一度お会いできて、あの神楽坂のお座敷で飲みながら、師匠の三味線の爪引きで流行り都々逸(どどいつ)や新内節(しんないぶし)を、あの嗄(しゃが)れた聲で聞けたらどんなに楽しいかと、懐かしく思いを振り返っている。

外はすっかり真夏の景色になっている。もう少しすれば蝉の声は一斉に消え、秋虫の響く月明かりの夜へステージが変わる。人生の季節の節目は本人の意志に関係なく否応なしに流れ、抵抗すら許されずに飲み込んで行ってしまう。
遠い記憶のひと夏の恋物語は秋を告げる中秋の名月を迎える月齢の新月のその日に終わりを告げ、月のない暗闇の夜に呑み込まれて行ったままなのである。       完

エピローグ
子どもの頃や青春時代の夏は待ち遠しくてワクワクして生きていた。そんな想い出が今も鮮明に浮かびます。
いつの頃からであったであろうか、たぶん最近なのは間違いないが、夏がこれ程までに殺人的で凶暴になってしまった。誰もがこの頃に降る雨がそんな地獄を引き連れて来るなんて、微塵にも思う事なく静かに雨がしとしと、さらさらと降っているのだ。静かに笑いをこめて生温い吐息を吐きながら足音だけをひたひたと忍ばせてふりかかっている。
数日が過ぎて目覚めれば、めずらしくあの雨は跡形もなく消え、眩しい耀く朝になっていた。小鳥たちがあちこちで囀っている。その時に気づいたのだ。嗚呼、夏が来たのだ。纏わり付いた雨は何も告げずに跡形もなく上がっていた。

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