モンゴル帝国が準備した近代化

イントロダクション

こんにちは、こんばんは、おはようございます!Renta@マレーシアから国際関係論について考える人です!

今回のテーマは2つです。1つ目がモンゴル帝国で2つ目が西ヨーロッパの近代化です。

面白いのは、モンゴル帝国が西ヨーロッパの近代化の基礎を準備したということです。早速見ていきましょう。


暗黒の中世という誤解とモンゴル帝国

ヨーロッパの中世は、14世紀イタリアの学者であるペトラルカによって「暗黒の中世」と呼ばれました。

ギリシア・ローマなどの軍事的に強く文化・経済的にも発展していた時代にと比較して、中世ヨーロッパは劣っているという表現だそうです。

しかし、中世ヨーロッパ全体が文化的に発展していなかったかというと、そうでもありません。例えば、ベネチアとジェノバという現在のイタリアにある都市国家は隆盛を誇りました。

例えば、発展の結果人口が伸び、1301年までに、ヴェネツィアの大評議会のホールは、評議会議員全員を収容するのに十分な大きさではないと一致して認められ、拡大されました。そのメンバーの数は、都市の増大する富とともに増えていたからです。

一方、ジェノヴァについては、13世紀末頃に書かれた詩が美しい都市を称賛しています。都市の富の源は、ステップからの豊富な物資供給、そして胡椒、生姜、麝香、スパイス、錦、ベルベット、金織りの布、真珠、宝石、貴石などだったそおうです。その詩ではさらに、ジェノヴァの富の理由はガレー船と船によってサービスされるネットワークであるとされています。

ベネチアとジェノヴァが発展した大きな理由として、彼らが顧客の欲望を満たすための技術と洞察力を持っていたこと、そして他のヨーロッパの都市から来た商人たちがそこに運ばれた商品を買う中継貿易の拠点になったことが挙げられます。

ここで注目すべきは、ベネチアとジェノバの発展の裏にモンゴル帝国があったことです。モンゴル帝国はベネチアとジェノバの全盛期とだいたい同時期(13世紀ごろ)にピークを迎えます。


モンゴル帝国の最大領土

ベネチアとジェノバは黒海の貿易によってもたらされる商品をヨーロッパに売っていました。地図の通り、黒海はモンゴル帝国の管理下にあり、その港を通過する輸出品に対する関税は、商品の総価値の3-5%を超えることはなかったのです。これは、中東のアレクサンドリアを通過する商品に対して課される通行税や徴収金と比較して低かったそうです。アレクサンドリアでは、税金が10%、20%、さらには30%にも上ったとされています。中継貿易拠点としての競争力を得たため、ベネチアとジェノバは都市国家として繁栄しました。

ところで、なぜモンゴル帝国が絡むと税金が安くなるのでしょうか。その理由は、パクス・モンゴリアと商業精神から来ています。

パクス・○○という言葉は、「○○という国の圧倒的な力による平和」という意味です。元々はローマ帝国が地中海を平定して、そこでは戦乱がなくなったことが来ています。
上記の地図の通り、モンゴル帝国はユーラシア大陸を制覇してしまったので、ユーラシア大陸ではパクス・モンゴリアが成立します。

そしてそこでは商業に関する事項については法の支配が厳格に保護されました。例えば、元の道路システムは、旅行する商人たちの安全を確保するための行政措置に驚嘆した訪問者たちが羨むものでした。14世紀の大冒険家であるイブン・バットゥータ「中国は旅行者にとって最も安全で、最も良い国です」、「大きな富を持って9ヶ月間一人で旅行しても何も恐れることはない」と記録しています。この見解はペゴロッティという学者によっても反映されており、彼は黒海から中国までのルートは「昼夜を問わず完全に安全である」と述べています。

これらは部分的には、伝統的な遊牧民の規範によるもので、見知らぬ人に対してもてなすべき、という規範によるものでした。また、モンゴル帝国が元々遊牧民で略奪か商業をしなければ部族の維持が困難だったので、平和に収まる商業を重視したという側面もあります。この意味で、黒海を通過する商品に課される関税は減税されたのです。

元々、モンゴル帝国はそれこそ現在のモンゴル共和国があるあたりで暮らしていた部族が、ユーラシア中に広がってできたものです。
これによって「モンゴル帝国が世界史を作った」と言われることもあります。ここでの世界史とは「地球の裏側での出来事が何らかの影響を及ぼす」という意味です。

アジアで発生したモンゴル帝国が遠く離れた中東やヨーロッパにまでやってきて影響を及ぼすという事態が発生したのです。このような広い範囲で影響を及ぼした帝国はモンゴルが初だとされています。

モンゴル帝国によって準備された近代史

また、モンゴル帝国は近代のヨーロッパの発展を準備したともいえるかもしれません。

例えば、現在のロシアの専制的な政治システムです。

モンゴル帝国は現在の西部ロシアも支配していました。といっても、これだけ広い帝国なので常に目配りが効くわけがありません。そこで、モスクワ近辺の元々の支配者を税金の徴収係としました。それが、ロシア史の英雄の1人であるイヴァン1世です。モスクワの大公であるイヴァン1世が「イヴァン・カリータ」はつまり「金袋のイヴァン」とも呼ばれています。これは、上記の税金徴収係だったからです。

興味深いのは、税金徴収係として仕事を通して自分もかなりの利益をえていたことです。そうして力を蓄えたイヴァン1世はモスクワ近辺からモンゴルを追い出してしまいます。このことをもってイヴァン1世はロシア史の英雄とされています。イヴァン1世のような力強い人物の手に富と権力が集中することで繁栄する、というのがロシア史のパターン(少なくともロシア市民のイメージに)になっていきます。例としては、ピョートル大帝・レーニン・スターリン・プーチンなどなどが挙げられます。

もう少し西側のことも見てみましょう。ざっくり言えば、西ヨーロッパはモンゴル帝国がもたらした黒死病によって苦しむのですが、それによって近代化のいくつかの条件が整うことになります。

そもそも、ユーラシア大陸のステップは疫病の温床でした。乾燥した半乾燥地帯であるステップでは、ノミによる血液摂取を通じて一つの宿主から別の宿主へ伝播する細菌Yersinia pestisの拡散に適しているのです。ペストは最も効果的かつ迅速に、特にネズミなどの宿主によって広まりましたが、ラクダも感染し、その伝播に大きな役割を果たしました。また、ユーラシア大陸のステップ地帯には山地などがないため、ペストが広まる速度も尋常ではありませんでした。ペストはモンゴル帝国の圧倒的な機動力に乗ってユーラシア大陸中に広まります。ヨーロッパの人口の1/3がペストによって亡くなったとされています。

皮肉なことに、ペストは後から見ればヨーロッパにポジティブな影響をもたらしたのです。

ペストによる慢性的な人口減少によって労働力が減ったため、賃金を急激に上昇しました。具体的には1350年代初頭にペストがようやく収束し始めるまでに、あまりにも多くの人々が死亡したため、「使用人、職人、労働者、農業労働者などの不足」が生じたとされています。これは、以前は社会経済的なスペクトの下位にいた人々に大きな交渉力を与えました。

また、世代間のギャップも大きく影響します。ペストを乗り越えた若い世代は、上記の理由で親よりも給与が高く、将来の見通しが良くなったため、自分たちが興味を持つもの、特にファッションなどにお金を使い始めました。これにより、ヨーロッパの織物産業への投資が刺激され、急速に発展し、大量の布地を生産するようになりました。

この変化は特に近代で活躍する英仏独を含む北西ヨーロッパで顕著に現れます。ペストによる労働力の減少自体はイタリアやスペインなどの南ヨーロッパでも起こったのですが、そこではなまじ商業が発達していたため、ギルドという組合が出来ており、独占的な市場が形成されていました。北西ヨーロッパにはギルドがなかったため、自由競争が起こり、自由競争に勝つ為に勤勉な労働倫理が説かれることになります。

もちろんこれだけで近代の科学革命や産業革命が起こるわけはないのですが、最低限必要なマインドセットは準備されたと言えます。

まとめ

モンゴル帝国は圧倒的な機動力と戦闘力によってパクス・モンゴリアを樹立しました。その影響で、短期的にはベネチアとジェノバを始めとする商業都市国家が繁栄します。

長期的には、モンゴル帝国がもたらしたペストとその後の労働者の地位向上、自由競争の確立と労働倫理の誕生によって北西ヨーロッパが近代で繁栄するのに必要なマインドセットが醸成されます。

近代を振り返る際、モンゴル帝国は重要な起源の1つとなりそうです。

最後までお読みいただきありがとうございました!

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