自分が褒められるのはどうも苦手だ。 でも、 自分が作ったものが評価されるのは 自分が褒められることよりは、 素直に受け取れる。 うれしいと思える。 特に、それが、 私が作ったということが伏せられているにもかかわらず、 選んでもらえた時などは、 とてもうれしい。
受け入れがたい現実でも、 受け入れざるを得ないことがある。 自分の心を無理に変形させ、 形だけ、受け入れたことにする。 でも無理に変形させただけなので、 歪みで、どこかに力がかかって器は割れてしまう。 割れた器を再生するのは容易でない。 破片なら継げばよかろう、しかしこれは粉々。文字通りの粉砕であって。
私の人間関係の前提は、私は他者から受け入れられない、ということ。 拒否され、否定され、蔑ろにされる。 でも、本当は誰かに受け入れられたいと渇望していて、これ以上誰かに否定されたくないという思いは、かなり強いのだろう。 だから予防線を張る、 「迷惑かなと思って」。 私が私を嫌いなのだ、 それを、 他者が私を肯定するか?しない。 だから、 私を肯定していた人も、 いずれは否定するはずだと思っている。 自分が賛美されると困惑する。 この人も、もう少し私を詳しく知ったら、私を否定
なのかどうかはわからないけれど。 自由なのだとわかったときに、 好きなようにやっていいとわかったときに、 じゃあわたしはもういらないね、と なぜか思った。 わたしがわたしである必要もないし ほかのひとがやればいいんじゃない?と。 ふつう、逆だと思うんだけど、 なぜかそう頭に浮かんだ。 どうしてだろう。
自分の中の醜悪な思いは、いつもはないことになっているし、たまに顔を出したならなんらかの大義名分を振りかざしてその存在を正義とする。もしくは、見なかったふりをする。 しかし、大きく顔をのぞかせ、大義名分もない場合は、正面切って、その存在を認めなければならない。きつい作業である。 なんの話をしているか。 写真付き年賀状が届いた私の心情についてだ。 昨年の年賀状には、独身に戻ったと書いてあった。身を案じ、夏に、体調などを気遣うメールを出したが返信はなし。年末に、地元に帰ってきて
自分に目を向けるのが苦しいからといって、 自分の退屈を紛らわすのにちょうどいいからと いって、他者を自分の娯楽にするのはいかがなものかと思っている。 他者は私の道具ではない。エンターテイメントではない。 その人その人の人生があって、あるかないかはそれぞれだけど目的なり用事があって生きている。当然、有限の時間だ。 私は私の人生を生きるのが本分。 他者を巻き込まずに、知りたいことを書物から得るもよし、心の赴くままになにかを作り出してもよし。 自分の心の穴を埋めるのに他者を連れて
子どもにとって親は絶対だ。 神みたいなものだ。 神の言うことは絶対だ。 黒を白と言ったら、白だ。 子どもには親を懐疑する機能は持たされていない。 持っていたら、親の不備を指摘する言動をするだろうし、 それをした瞬間に 衣食住を奪われかねない。 生存戦略として、神に従う、それだけ。 全世界共通、私に限ったことじゃない。 親(以降、神)が私をボロカスに言っていたのだから、 私も私をボロカスだと思うのはごく自然なことだ。 神は私が他者からボロカスに言われてもそれをかばうことはなか
誰かに求められたい。 それなくしては存在が軽過ぎる。 でもそれじゃだめ。 誰に求められなくても存在する自分。 誰に求められることなくして存在し得る自分でありたい。 自分が自分の人生を生きる。 他者は私に近づいたり離れたりするけれど、それに対して何の期待もすることなく。 ああ近づいた、楽しいね、 ああ離れた、さようなら、 対岸の火事でも見るように、 もっと、何の期待もしないように。 他者の力になることに依存することなく。
同じ絵でも、表装を変えれば、イメージが変わる。 マットの色やサイズ、額の色や素材やデザイン。 素敵な絵や作品には、まずそれを飾るにふさわしい十分な余白が必要だと思う。 手のひらサイズのほんとうに小さな絵でも、マットのサイズはそれなりに大きいものにしたいし、それを飾る場所も、やっぱり、照明にまでこだわれなくても、スペースは大きく取りたいもの。結界のように。 それは、たとえば矢継ぎ早になにかをしたりされたりしては、ゆっくりと考えることも十分に解釈をする余裕もなく、腰を据えて向き
この人の言葉が聞きたい、と思う人と人生を歩みたい。 そうでなければひとりでいい。 そして、 私の言葉を聞きたい、そう思ってくれる人と人生を歩みたい。 そうでなければひとりでいい。
挫折を味わう時、心は壊れる。 それが数個の破片であれば、継いで元に戻すこともできよう。 しかし、文字通りの「粉」になるようなこっぱみじんの粉砕だったらどうか。 継いで元通り、というわけにはいかない。 私が離別で感じたのは、心の粉砕だった。 小手先の言葉でちょいと継げば元通りになるような傷ではなかった。 もう元には戻らない粉々の心を抱えて、どうすればいいのか右往左往。涙に暮れる日々。 神様がいるかどうか知りませんけど神様、あと何百cc涙を流せば私は泣かなくなりますか。 何箱
離婚という言葉が好きでない。 多分、マスコミや週刊誌がこぞって人の不幸をおもしろおかしく取り沙汰して、下品極まりないという印象が強いからだ。 だから、私は離婚したが、離別という言葉をここで使うことにする。 2名の人間が惹かれ合うとき、その2名は、どこかしらなにかしらが似ているのだと思う。顔がとかそういうことでなく、心のあり方やこれまでに培われた考え方、今後の見通しその他。なにかしら通ずるものがあって、共感して、生活を共にすることができるのだと思う。 それがいつしか、年月を過
ある人の妻であったとき、私は私でいられていなかった。 夫を優先。 自分らしさ、自分の考えはどこかに置いて懸命に「良い妻」であろうとした。 自分の精神の居場所であったブログ書きもやめた。 それでいいわけがなかった。 一人でいる今、自分が自分の元に帰ってきて、一緒にいてくれていると思っている。 ほっとしている。 もちろん、喪失は寿命が縮まるほど苦しいし、今でも喪失感には苦しめられているけれど。 夫の顔色をうかがうことなく、遠慮せず、自分の選択を自分のためにできる。 さびしさ