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その夜妻は「会社、辞めてもいいよ」と言った

10年勤めた会社を退職しようと決意したのは、ちょうど2年前のことでした。

当時、僕はデビューして4年目の兼業作家でした。ありがたいことに複数の出版社から声をかけていただいていましたが、作品が文学賞の候補になることもなく、大きな話題になることもありませんでした。今だから告白できますが、その時点で8冊ほど本を出して、一度も重版がかかったことがありませんでした。

そのような状況だったので、会社員の仕事を辞めて作家1本でやっていくということは、全く想像もしていませんでした。しかし連載の仕事もいくつか 舞い込むようになり、ほとんどキャパオーバーに陥っていました。やりたい仕事があってもすぐには手をつけることができず、延期をお願いするかお断りするような状況でした。

会社の仕事にもやりがいがなかったわけではありません。入社からちょうど10年が経ち、少しずつ責任のある立場になっていました。辛いこともあるけれど、たくさんの人とコミュニケーションを取りながら仕事を進めることには達成感がありました。

また、世間的に自分の状況が恵まれているということも自覚していました。会社員として働きながら、小説家としても継続的に本を出すことができる。それだけで万々歳であり、自分がデビュー前に目標としていた姿になることはできていたと言えます。

一方で、自分のやりたいことを100%やりきれないことに対する鬱屈は日に日に強まっていました。また、兼業で仕事をすることへの精神的、肉体的な負担も相当に大きくなっていました。当時は5時間睡眠で執筆と会社の仕事、育児家事をこなしていましたが、無理をしていることは自分でもわかっていました。

それでも、会社を辞めるわけにはいきませんでした。前年に2人目の子供が生まれたばかりで、とうてい専業作家になりたいと言い出せる状況ではなかったからです。専業の小説家になるということは、ギャンブルに近い行為です。1年後はともかく、5年後、10年後のこととなると全く予想もつきません。ましてや、ヒット作があるならともかく重版すらかかったことのない作家です。将来性なんてあると思うほうがどうかしていました。

ゴールデンウィークの最中、夕食の席に座った私の顔は疲れ果てていたのだと思います。当時は毎晩ビールを飲むことが習慣になっていました。その夜も、いつものようにビールを飲みながら夕食を食べていると、妻がぽつりと言いました。

「会社、辞めてもいいよ」

耳を疑いました。先述したように生まれたばかりの赤子がいるし、上の子も保育園に通っている年齢です。妻だって、専業作家になるということがどういうリスクをはらんでいるのか、分かっていなかったわけではありません。「えっ?」と聞き返すと、妻はもう一度言いました。

「専業作家になりたいんでしょ。だったら、いいよ。やってみなよ」

たとえば、50歳になってから「専業作家にチャレンジしたい」と言われても困る。今ならまだ30代だから、やり直しが効く。だったらできるだけ早くチャレンジした方がいい。そんなことを妻は言いました。

迷いがなかった、といえば嘘になります。自分のわがままで家族に迷惑をかけるわけにはいかないし、そのせいでもし妻や子供が不幸になったらどうするのか。当然、そういう葛藤はありました。

しかし最終的には、専業になることを選びました。妻から「会社、辞めてもいいよ」と言われた時に、自分でも驚くほど気持ちが楽になっていたのです。「僕は専業作家になりたかった」ということ自体を、妻が思い出させてくれました。

ゴールデンウィークが明けた5月、退職の旨を上司に伝えました。上司からは「辞める以上は頑張ってほしい。直木賞でも獲って、俺たちが『あの作家と一緒に仕事してたんだぜ』と自慢できるような作家になってくれ」と言ってくれました。そして、7月末日をもって会社を退職しました。

退職した翌月、『最後の鑑定人』という作品で初めて単行本の重版が決まりました。さらに、その翌月に出した本も重版が決まりました。翌年には、初めて文学賞の候補になりました。専業になってからにわかに追い風が吹いているような気がしますが、これも兼業時代に頑張ってきたからだと思っています。おかげさまで、今また文学賞の候補者として選考の日を控える立場になっています。

会社を辞めてから、1年と9ヶ月。なんとか専業作家として活動することができています。ですが、厳しい仕事であることには変わりありません。0歳だった子供は2歳になりましたが、あと少なくとも20年近くは働き続けなければなりません。それは決して低いハードルではないと思いますが、2年前に妻から言われた一言を思い出すたび、頑張ろうと思えるのです。

「会社、辞めてもいいよ」

その一言があったから、僕は今でも作家でいることができるのだと思います。

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