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言葉によって言葉に逆らう

全体小説を勉強するために、『岩波講座 文学12 現代世界の文学2』という本を古書で買いました。1976年の刊行なので、半世紀近く前に出た本です。執筆陣を見てみると、大江健三郎、野間宏、武田泰淳、唐十郎、井上ひさし、吉増剛造と、当時第一線で活躍していた文学者たちの名前がずらりと 揃っています。

元々の目当ては大江健三郎と井上ひさしだったんですが、ちびちび読んでみると、それ以外の書き手の文章もすごく面白くて。特に安部公房が書いた「言葉によって言葉に逆らう」という短い評論がかなり面白いです。

この文章の主張は冒頭で示されています。

小説は意味だけで成り立っているわけではない。意味以前の、意味としてまだ整理しつくせないイメージが、重要な構成部分をなしている。

『岩波講座 文学12 現代世界の文学2』p.249

この評論は本当に名文で、どこを切り取っても意味が十全に伝わらない気がしてしまうんですが、拙いながらも要約させてもらうと。小説を書くことは、「意味以前のものを書くために、意味を伴っている言葉を使う」という矛盾をはらんだ行為であり、その矛盾について書いた評論なのだと思います。具体的にどうすればいいのかということも、安部は書いています。

だが、かならずしもイメージを物のように作品の中に存在させる必要はない。イメージを調理するための、装置と材料を提供するだけでじゅうぶんなのである。あとは 読者が指示通りに装置を頭の中で組立て、提供された材料を加工して完成品に仕上げればいい。装置と材料そのものは、明晰な言葉で表現された、明晰な意味であっても、それが読者の頭の中で思い掛けない化学反応を引き起し、意味以前のイメージを生み出してくれればそれでいいのだ。事実、イメージの豊かな作品であればあるほど、読者への依存度も大きいものである。

『岩波講座 文学12 現代世界の文学2』p.251

意味以前のイメージを描きたいからと言って、不明晰な言葉(たとえば幼児語のようなもの)を使う必要はない、という話ですね。完全に明晰な言葉であっても、「装置と材料を提供する」というやり方であれば、読者に意味以前のものを自ら組み立ててもらえる。

何となく、書き手として感覚的にわかることです。例えば、「言葉にしにくい感情」っていうのがあると思うんですが。怒りでも悲しみでも切なさでもないというもの、人生のどこかで味わったことありますよね。小説では、場面設定や人物造形によってそういう感情を味あわせるわけですが、その場面や人物を設定することが、ここで指す「装置と材料を提供する」ということなのかなと思いました。

安部の論評は書くという行為そのものにも及んでいきます。小説というものは言葉本来の性質に逆らう異端な存在であって、「鳥と獣の両方から仲間外れにされた蝙蝠の立場に似ていなくもない」と語っています。その上で、小説によって思想を語ることの危うさについても書いています。

 いつの時代からか、小説に思想の肩代りを求める傾向が目立ちはじめた。印刷技術の発達につれて、小説の普及度が高まり、言葉を使う表現形式の中で無視しえない力を持ちはじめたせいだろう。
 むろん卵の殻にだって思想はある。まして言葉を使う小説には、はるかに 思想的な側面が顕著である。べつにその事を否定するつもりはない。だが、小説の蝙蝠的な性格をなじるような文学理論には、やはり首を傾げざるを得ないのだ。(中略)小説に思想の肩代りを求めることは、小説に言葉への叛逆を中止するよう求めるのと同じであり、それが小説の圧殺に他ならないことを認識できないような思想は、思想としても怪しいものだ。(中略)思想と小説では、もともと使う言葉の質が違うのである。

『岩波講座 文学12 現代世界の文学2』p.254

では、小説が使う言葉にはどのような特徴があるのか。結論を最後に少しだけ引用しようと思います。

極論すれば小説は反真実の世界だとも言えるだろう。(中略)小説は小説であることによって危険なのである。小説の虚構性そのものがすでに反体制的なのである。

『岩波講座 文学12 現代世界の文学2』p.256

小説というものは嘘であり、虚構であって、そうした言葉は思想を語ることとは相容れない、というのが安部の主張です。

思想という言葉のテリトリーをどう設定するか次第だと思いますが、僕自身は、小説を書く上ではどうしても作者の考えや主義主張というのは一定程度滲み出てしまうものなのだと思っていました。ただ、安部公房の小説、例えば『箱男』とか『砂の女』とかを振り返ってみると、確かにそこには作者の思想が浮かび上がってこないんですよね。そういう意味で、安部公房は小説 が持つ虚構性を突き詰めた、彼が言うところの「純粋の嘘だけで成り立った小説」を追い求めた、非常に稀有な作家だったんだなと改めて思いました。

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