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つい眠りおちたあとの深夜

青山南著「本は眺めたり触ったりが楽しい」を読んでいる。これはいろんな本や映画や誰かの本の読み方について短文でちょこちょこと触れつつ進んでいくので、軽快で読みやすい。
作品内にあるようにペラペラめくって好きなところから読むというのもおすすめである。

自分は触れたものの文体に随分影響を受けることがあり、上に挙げた本の文体にも影響されて今文字を書いているんだろう、と思っている。
いちど「アルジャーノンに花束を」を読んだときは、その後の頭の中の声やら記録するつぶやきやらがみんなかの本に影響されていて恥ずかしくも愉快だった。

先ほどまで占星術から来る話をしていた。
彼女が自身は情が深い懐が深いというので、それにしてはこちらは寂しい思いをしている、どうも他人にはその包容力が伝わっていないのではないかなどと話していた。星読みを試した結果、彼女は確かに情が深いらしいが弱みを見せたがらないので伝わりにくく、自分は愛情深い代わりに愛されたがるので寂しくなりやすいのだということになった。
当たっているにせよ当たっていないにせよ、こういったことを面白がれる相手は貴重だ。

旅行記を読んでくれたひとが、口で読んでもいい気分になりそうな文章だというので大変うれしく舞い上がってしまった。地上に戻ってきてから、最近は音読も読み聞かせも朗読もしていないが、どれも自分の好きなものであったことを思い出した。
「本は眺めたり触ったりが楽しい」によると、ドイツやアメリカでは朗読会が盛んだそうで、少々羨ましい。授業で順繰りに教科書を読まされる経験しかしていないものには苦痛やもしれないが、声に出して読むというのは内容の把握度に関係なく気持ちのいいものだと思う。

実をいうと読書らしい読書はここ数年しておらず、数時間前までは本当にこの本を読めるのか自信がなかった。数日後回しにしたあげく、タイトルの通り触るだけでもいいか、と手に取ったところするすると読めてしまった。やってみるものである。
この本は贈られたもので、でなければもうしばらく積まれていただろう。本を贈られるというのは大変うれしい。読み切れるかどうかはともかく、厚意を味わえる時間がとても長い。背表紙を眺めるだけでも、触って表紙を撫でるだけでも気分がいいものだ。

恥ずかしながら、書を捨てよ、町へでようという言葉がアンドレ・ジッドの「地の糧」が出典ということを初めて知った。もじったことをつい言ってしまう身としてはこれは是非覚えておかねばならない。自身のために記しておく。

本を読むとはこんなにも自由なものであったか。そう思わせてくれる本であった。贈ってくれた彼に感謝である。

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