【1分で読める小説】#シロクマ文芸部「紫陽花を」『彼女はこちらを見ない』
紫陽花を見つめる彼女の瞳がこちらに向けられることはない。おそらく永遠に。僕を見ることはあっても、僕を見ているわけではない。そんなこと、結婚する前から解っていた。
「お滝さん」
僕は縁側に座る彼女の横に座った。微妙な距離を開けて。小雨を降らす雲の隙間からわずかに日の光が庭に射しこんでいて、空色の紫陽花に当たっている。
ふと、彼女が口を開いた。
「仕方のない人よね。私の名前を紫陽花につけるなんて。いくら私が紫陽花を好きだからって」
僕は瞠目した。
妻が紫陽花を好きだったとは知らなかった。彼女は何一つ、僕に自分のことを話そうとはしなかった。政略結婚とはいえ人生の伴侶になったのに、今まで何一つとして。
僕は反目する2つの感情に戸惑った。
初めて妻の好きなものを教えてもらえて心が浮き上がるような、そんな感情と、彼女が話す気になったきっかけは僕ではなく、彼女の中に居続ける彼なのだ、という落胆。反目してはいてもこの2つの感情の比率は圧倒的に後者の方が大きい。
これがどうして単純に喜べよう。
けれど出会った時にはもう引き返せなかった。
僕もいつか彼女に仕方のない人ね、と溜息をついてもらえる日は来るのだろうか。
不意に彼女の澄みきった黒い瞳が僕を射抜いた。
日本を追い出されオランダへ帰っていった彼には一生勝てぬのだと、ただ彼女の瞳はそう、語っていた。
了
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