見出し画像

何かになりたいより、どう生きたいかで人生はできているのかも

今朝はとっても素敵な記事を見つけました。

これだよこれっ、私もこういう人生を生きたいの!!
でも、できない……それはどうして?

私はずっと、世間に認めらる何モノかになりたかった

親に愛されたかった、優しくして欲しかった。
だから親の望む理想に少しでも近づこうと努力した、というよくある話です。

学生になってからは、親友という存在に憧れていました。
相手にとって大事な存在になりたい、その人の望むような人間でありたいと努力し続けて疲れ切って。

恋愛もそうですが、相手が自分をどう思っているかは分からないし、だからこそ気になりますよね。

今なら「そんなの関係ないって、自分が好きならそれでいいじゃん」と言えるのですが、更にその上の「そのままでいいんだよ、生きてるだけで価値があるんだから」となると急に自信がなくなって怖気つくという。
やっぱり未だに「誰かに必要とされる」ことにこだわりがあるのだと思います。

何しろ我々50代は人口も多く、代わりならいくらでもいますから。

人から必要とされる何か、
誰かから愛される何か、
絶対に居て欲しいと望まれる何か、
多くの人から存在を認められる何か

そういうものになりたくて、強くイメージすればなれるのかもと思って「ポジティブ」思考もやってみました。

なのに、こういう「自分の好きなことをただ純粋に追求しながら生きている」記事を読むと「そういう努力じゃないんだなあ」と感じてしまいます。

*****

本来、人はもっと自由でわがままでいいのかもしれない。

自分はどう生きたいのか。
自分は何に惹かれるのか。
どこにいると心地よいのか。
しっくりくる場所はどこ?
楽しいと思えることは?

あくまでも自分が主役、それが当たり前。
そういうふうに生きられるようになると、しっかりと地に足がついて、運命的なモノに巡り会えるのかもしれません。

思えば、私にもそういう経験はありました。
偶然とは思えない、ちょっとした奇跡みたいな出来事というか。こうしたいという思いが具現化したというか。

*****

頭であれこれ画策するよりも、自然な流れに乗って動いていると、結果的には行きたい場所に辿り着く。それは分かるんですが、どうしても思考が邪魔をして確信が持てないんですよね。
抵抗せずに流されてもいいんだろうかと。

世の中にはとんでもない悲劇も存在するし、そういう結末にならないとも限らない。そこに至らないという確証が欲しい。

「何とかなるさ〜」
というより、何とかしようと思える限りは何とかなるのか。
行動し続けられれば何とかなるのか。

そこがいまいち不明瞭で、だからできない、自由には生きられない。
自分がこの既成概念から解放されることはあるのかないのか。

美しいイラストを見ながらこんな世界に行ってみたいと憧れるように、素敵な記事にしばし悶々と考えてしまいました。





この記事が参加している募集

#一度は行きたいあの場所

51,365件

#今日の振り返り

23,082件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?