ダッシュボードを作ってもデータドリブンな意思決定にはならない
ダッシュボードを作っても何も解決しない
ダッシュボードを作ることが分析であり、データドリブンな意思決定につながる、みたいな話には以前から違和感はあった。
そこで、何が違和感をもたらしているのか、ダッシュボードの位置づけをどうするのがよいのかについて言語化を試みる。
ダッシュボードを作ることと意思決定の間が抜けている
ダッシュボードで得られるのは基本的には意思決定にそのまま使うことはできない「データ」である。
ダッシュボードを使う際には意識はしていなくても実際にはその「データ」から洞察を行い、特定の問題の意思決定のための「インテリジェンス」を作り出している。
ダッシュボードと意思決定を考える際に間にある洞察が抜け落ちると「ダッシュボードで意思決定」のように直接つながっているように見えてしまう。
ダッシュボードは可視化によるデータの理解を促進する
ではにダッシュボードの役割は何か言えば、可視化してデータを理解しやすくすることで洞察を助ける。それ以上でも以下でもない。
洞察はダッシュボードでの可視化の次の話で、データの集計はその前の話である。もっといえば、集計のためのデータの整理はさらに集計の前になる。
分担することも全部同じ人が担うこともあるし、同じツールで複数のことを行う。行ったり来たりすることもあるが、全部別の話だ。
違和感の原因は、これらが混同されて役割が曖昧なままで「ダッシュボード」という言葉がなんとなく使われていることだったようだ。
ダッシュボードは冷蔵庫を整理して料理をしやすくすること
ダッシュボードを作ることを料理に例えると「冷蔵庫を整理して料理をしやすくすること」に似ているのではないか。つまり、入手した食材を、
適切な場所(冷蔵庫、冷凍庫、チルド室)におく
何がどこにあるのかを分かりやすくしておく
よく使うものを上に、古いものをより手前におく
今日の晩御飯に使う予定の食材をひとまとめにしておく
といったことに相当するだろう。冷蔵庫の整理は料理をする助けにはなるが料理ではない。いくら冷蔵庫を整理しても料理にはならない。
ダッシュボードも同様に、作ることは洞察の助けにはなるが、そのものではない。つまり、ダッシュボードを作れば意思決定ができる、は間違いである
ダッシュボードを作ることが意思決定にそのまま使える場合もある
という話をしていると「いや、ダッシュボードがあれば意思決定ができる」と考えるかもしれない。たしかに、ダッシュボードがそのまま意思決定につながる場合はありえる。
局所的短期的な意思決定
意思決定するのに単純な事実や数字1つで事足りることもある。近所のコンビニに行くのに傘を持っていくかを決めるなら、今日の天気が晴れで降水確率0%がわかればそれで十分だ。
このような場合であればダッシュボードと意思決定が直結していると言える。ただしこのような場合は局所的、短期的な意思決定に限るだろう。
冷蔵庫の例でいえば、冷ややっこのように食材をそのまま食べられることに例えられる。
閾値と行動が決まっている
ダッシュボードを見て実績が計画に対して足りていないので行動を起こすというような場合を考えてみよう。
この場合、「売上の予測」という計画を作るための「インテリジェンス」が別のところで作られており、そこから計画が決まる。ダッシュボードの役割は実績と計画の差異を可視化することで見やすくしている。
閾値を超えたら行動することが事前に決まっていれば、ダッシュボードでそれを確かめることで行動に移れる。ただし、ダッシュボードでは洞察や意思決定をしているのではなく、それらはもっと早い段階で別のところで行われている。
同じく冷蔵庫の話に当てはめると、料理して完成品を保存しているのと似ている。準備をしているので食べようとしたときにすぐ手に入るが、冷蔵庫で料理をしているわけではない。
ダッシュボードは「分析のためのデータであること」を認識して使う
上記の場合を除けば「データ」は「インテリジェンス」にするために「洞察」を経なければ意思決定には使えない。そして、ダッシュボードではこのような使われ方が大半だろう。
であれば、やはりダッシュボードだけでは意思決定ができず、洞察を行う必要があり、ダッシュボードで得られるのは洞察のための「データ」である。ということを認識して使うことが良い。
道具なのでふさわしい使い方をすればいい、という何のオチもないまとめになった。ダッシュボードを作ったのに何かうまくいかないな?ともし思っていたら、この「洞察」が抜けているかもしれない、いうことが伝われば十分だ。