「仮説」を気軽に使うと事故になるので気を付けていること
「仮説」を気軽に使っているけど、大丈夫?
データ分析では「仮説」が良く話題にのぼるが、筆者は仮説という言葉があまり好きではない。
なぜならば、「仮説」というのは今そう思うことやすぐに思いつくこと、あるいはそうなって欲しいことになりがちだからだ。
「仮説を証明する」とか「〇〇がうまくいったか調べたい」なんてよく言われるが、これは仮説の間違えた使い方だ。仮説も考えるための道具であり、正しく使わないと事故につながる。
なので仮説は無暗に立てないのが一番いいと思う。しかし、すべてのことにゼロから対処はできないから重要度が低ければ低いほど思考をショートカットするためには必要だ。それに、どんなに仮説を使わないようにしても、先に何か思いついてしまえばそれが時には仮説となってしまう。
そんな「仮説」ひっぱられて間違えないようにどう対処しているか、という話。
「仮説」を使うときに気を付けていること
客観的に考えられるように問いを変える
正しそうな仮説が見つかっても終わりにしない
すぐ思いつく案に飛びつかない
数値であたりをつけない
知らないことは仮説にできないことに気を付ける
客観的に考えられるように問いを変える
「キャンペーンがうまくいったことを証明したい」ならば、「そのキャンペーンの結果はどうだったのか」に問いを変える。
「この指標が悪くなってきているのでは」と思ったら「この指標はどう変化しているのか」にする。
つまり、良し悪しではなく、客観的に見たらどうなのかだけに注目する。
良し悪しを問うと、特に自分が利害関係者の場合はどうしても都合の良い方向に持って行きたくなる。重要なほどその誘惑は強くなる。であれば、評価を含むような問いにしないことが一番だ。
正しそうな仮説が見つかっても終わりにしない
正しそうな仮説というのは、大抵自分の考えに合っており、もっといえば自分の利益になるかどうかが基準になりがちだ。なので違う方向から他にどんなことが考えられるかを追うようにしている。
正しそうな仮説を証明しようとすればいくらでも都合の良いデータは見つかるだろう。しかし、それでは最初から結論が決まっているのと大してかわらない。
すぐ思いつく案に飛びつかない
真っ先に思いつくことは大抵間違えているか何かが不足している、と思うようにしている。
数値であたりをつけない
それっぽい答えの中でも数値でいわゆる「あたりをつける」と、その後の考えがその数値に引っ張られるような気がする。アンカリングというバイアスのことだろう。
その分野の知識や経験が豊富ならばあたりをつけても大きく外れないだろうが、そうでなければできるだけ使わないようにしている。
知らないことは仮説にできないことに気を付ける
1人の持っている知識などたかが知れている。例え詳しい人に聞いたところでその人が全てを知っているとは考えてはいけない。
もちろん全てのことにたくさんの時間をかけていられないし、時間をかけたところでわからないことはわからない。
ただ、自分の知らないことがあるのではないか、と常に考えることは必要だと思う。もしかしたら一番重要なことかもしれない。
悪いのは「仮説」ではないのかもしれないという「仮説」
もしかしたら、「仮説を立てる」ことがいけないのではなく「自分の意見に”仮説”というラベリングをすること」がいけないのかもしれない。「アイデア」「戦略」なども同様に、それっぽい名前を付けることで満足して後のことは別の誰かに押し付けるのはもっとよくない。
正しいゴールに向かわなければどんな手を打ってもゴールにはたどり着かない。しかしそのゴールをどうやって設定するのかを考えたり、設定したゴールが正しくなく、もっと良いゴールがあるかもしれないことを検証する機会はあまりに少ない。
「仮説」の使い方がおかしいのはそんな状況の中でたまたまた「仮説」という言葉が多く使われているだけなのかもしれない。という「仮説」についてはどう検証したらいいのだろうか。
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