「知ること」と「決めること」はわけて考えよう

「知ること」と「決めること」は全然違うのでは

「知行合一」という言葉もあるように、「知ること」と「決めること」を切り離すことはできない。しかし、この2つの行為にはまったく違う考え方、取り組み方が必要なはずだ。

「決めること」だけに注目が集まり、その結果だけみてプロセスを検証しないから成功に再現性がなく、失敗を繰り返しているのではないか。

「知ること」に必要なこと

徹底して客観性が求められる。人の好き嫌いだけで聞いていないか、発信者の思うような方向に誘導されていないか、自分の好みの情報だけ取り上げていないかなどを中立な立場でデータを評価しなければならない。

洞察する時も自分が望むような絵を書いてはいけない。自分が間違えていたことが明らかになるのだとしても受け入れなければならない。

つまり「知ること」のために自分がどう思うか、どうだったらいいか、納得がいくかなどは一切関係ない。

大袈裟かもしれないが、自分という存在を消し去ってしまうぐらいがちょうどいい。

「決めること」に必要なこと

どんなにたくさんの情報を集めたところで完璧に未来がわかるなどということはない。どこまでいっても不正確な予測の中から決めなければならない。

数多くの選択肢や、予算、人員、優先順位、期限、政治的要因など様々な制約条件の中で比較検討しなければならないが、これらを正確に計算することなどできない。

つまり「決めること」は最後は信念や気持ちの問題となる。

とすると、「知ること」とは真逆でどこまでも自分が中心である。自分で決めて、自分で責任を取る。その不確実性を受けいれることで、決める権限を得ているとも言える。

「知ること」がおざなりにされている

信念や気持ちが重要だからと「決めること」が優先され「知ること」がおざなりされているのが現状であろう。「知ること」が土台となり、その上に「決めること」というビルが建つはずだが、建物だけ見て土台を考えることがあまりないようだ。

不確実性を少しでも減らすためには「知ること」に手間をかけなければならない。不確実性を減らすことを試みずに「とりあえず決めてやってみて、結果が良ければそれでよい、悪かったらなかったことにする」でうまく行っているならば「知ること」など不要だ。

しかし、それがうまくいっていないならば「知ること」の軽視は問題として認識されなければならない。

「知ること」を担う別の役割がある

とはいえ、限られた時間の中で「知ること」のために時間を大きく割くことはできない。「知ること」には膨大なリソースが必要だ。たった1つのニュースが本当に信頼できるのかを調べるだけでもどれだけの労力がかかるか考えてみればわかるだろう。

「知ること」に注力することが難しいので「必要なのはわかっているけれども手が回らない」とおざなりにしてしまうのも理解はできる。

だからこそ「知ること」を助けるためにアナリストやリサーチャーと呼ばれる分析者の役割があるのだが、「知ること」と「決めること」が区別されていないからかこの役割分担も妙なことになっている。

「知ること」と「決めること」はわけて考える、という認識が必要なのでは

ここまで「知ること」と「決めること」という言葉を使ってきたが、要するにこれは意思決定と分析のプロセスに他ならない。「分析」と言うと「デジタル・数値・プログラミング」だけと結びつけてしまうかもしれないのであえて言葉を変えた。

プロセスでも別フェーズにしているように、やはり「知ること」と「決めること」は違うという認識を持つことが第一歩なのではないか。

これと「誰がどのフェーズを担うか」はまた別の話で、全部1人で担うこともあればフェーズごとに担当をわける方法もある。この点においてもあまり整理がされておらず混乱が起きていると考えている。意思決定と分析のプロセスと、その役割分担や職種・職名についてもまとめようと思う。

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