無駄を見つめなおすという誇らしさ
先日私一人旅で日光の奥鬼怒温泉郷へ行った時、車で行けるところは、温泉から歩いたら二時間ほど手前の駐車場までなのですが、そこから温泉めがけて歩いていたら、眼鏡を落としてしまい、帰り道に同じところを通り、探しながら歩いたのだが見つからず、もうかれこれ半年ほど眼鏡を買わずに頑張ってきてしまった。
最近では、目が疲れて肩こりや頭痛らしきものを感じるようになり、さすがにもう限界と眼鏡を買うことにした。
私の事務所のあるのは銀座なので、銀座で面白い眼鏡屋さんを探していたら、最近面白いと思っているお笑いのおぎさんが愛用している眼鏡屋さがあり、そこへ行ってみた。
そのついでに、奥さんの香織のTシャツを買うため、銀座の商業施設を歩いていたのだが、明らかにコロナのせいもあって、様子は変わっている。
緊急事態宣言も出ているので、そもそもお客さんも少ない。我々も目的を済ませて早く帰ろうとしていた。
洋服屋さんでの店員さんの声出しも声を潜めており、潜めているからかどうかは定かではないが心なしか細やかな態度で、こちらがほおっといてくれという態度をしているとそれを汲んで離れていてくれるし、すしざんまいも過剰な声出しというよりは、しっかりとお客さん一人一人を見てひとりひとりの行動に合わせて対応して話しかけているように感じられる。眼鏡屋さんは、私が検討している様子に合わせて声をかけてくれるし、とても心地よい銀座の街となっているように思える。
これまでどれだけ不必要な仕事をしていたか、と思ってしまう程銀座の街は変わってきている。
これがコロナが終わると以前のような街に戻ってしまうのなら、それは残念と思う程で、とても居心地が良いのが今の町だ。
何故、私たちはこのような無駄な仕事をたくさんしてしまうのかといえば、それは私たちは没入することになれてしまっているからであると思う。
文明が進み、街はネオンで光りまくり、音や文字が乱立する中で、街歩く人の密度も高かった。人々はこぞって声を高々に叫ばないと、誰にも気づいてもらえない。そこでアピール合戦の様相を持ってしまう。その雰囲気に没入することで、私たちは「やっている」という実感を持つことに邁進していき、疲れて一服する。
飲食店では声を合わせてお客様を迎え、洋服店では、選んでいようが何してようが、商品の説明に切り込んでくる。そういう喧騒は今は影を潜めとても繊細な接客が繰り広げられていると、その光景を体感した時には、仕事というのは暇なんだな~ということがわかってくる。
私も会社員をしていたが、会社員の時は、暇そうにしていれば上司に怒られ、暇そうにしていればお客様に起こられるから、大した用事は無いのに忙しそうにしていた。そして肩が凝り、苦労を顔に出していた。
一層のこと店員はいなくなって、商品の値段を下げて、商品説明は全て自動音声で聞けるようになっていれば、それが一番良いのではないだろうか?
そして従業員の人は家族の為になるべく家にいて、店に立つ人は一人いれば充分で、しかも楽しそうに気楽にしていた方がお客さも自由にものを選べるのではないだろうか?
これからそういう世の中になっていきそうな感じがするし、それでこそ本来やりたい事が、店舗の運営の中でも洗練されていくのではないかと思う。
そうしない人間の没入に対する、やっている感への欲求には本当にもったいないと思える。
そのエネルギーは必ずクリエイティブさにつながり、他にやることを誰もが期待していることだけにとどまらずに、自由な環境にしていくことこそ、これからの経済成長とするべきなのではないかと思う。
私が飲食店に勤めたきっかけは、飲食店で飲み食いしながら、精神性の交流や、情報交換の場を出来るお店を持ちたいという思いからだったが、いざやってみると、忙しいふりをすることに一生懸命になることで一日の仕事が終わってしまい。やらなくてはならない事は、仕事している時間の半分も無かった。
私たちがこのコロナ過において、我慢我慢と感じてしまうのは、人との関わりに実感がないと、経済が回らないという幻想に囚われてているのではないかという面を見てしまう。それは商売や事業に囚われ、没入している状態であり、人それぞれが自分自身に意識的であり、自分の感じる事や自分の内側から湧いてくるものに目を向けている状態ではないからではないか。
これからは自分に正直でいられる社会になっていくのだろうと期待に胸が躍るのは私だけではないはず。
スマップは解散し、嵐も解散している。これをジャニーさんが亡くなったからだけのせいとしてみるのは早計過ぎる。
必要のない仕事に気付こう、そこから必要な仕事が生まれてくるのであって、必要のない仕事に没入していれば、いつの間にか人生は通り過ぎていってしまう。
無駄を省き、無駄を無駄としたとき、その無駄という観念はこの物質界における枠組みにおいての無駄なことにきづくのであって、人間一人にとっては有益な人生の瞬間なのです。
世にいう無駄とは、いわゆる非効率的であり、ごみのことであり、余分な事であると思いますが、これは、人間を無視した無駄であって人間にはその無駄の時間こそ、本来光を当てるべきものがそこに在ることに気付く瞬間であると、捉えなくてはならないように思う。
それこそ、私自身、無駄を省いてやみくもに40歳まで過ごしてきたわけですが
そのストレスと緊張の観念の中に居たその経験は、悪いものではありませんでした。自分を酷使して作ってきたものは、自分が次へ向かう上で大切な期間であるのと同時に、どれだけやれば物質的に豊かになれるのかを知りたいという好奇心を埋めてくれるものでした。
そこで、違うことをやりたいと思った時に、物質的に合理的に生きてきたことが決して合理的ではなかったことに気付きます。それは自分の脳で考えることが、どれだけ小さい枠組みで生きているかを思い知る瞬間であったりして。
その枠組みの小ささを経験することを恥じることのない社会が、大切でその包容社会を作る時、新たな人と人との関係性というもが出来てくるのだろうと思います。
この人はこういう意識で努力しているな~病気になりそうだけど大丈夫かな~でもすごい熱意を感じるな~といった瞬間、人はその人に対して、「病気になるのでは?」という方にフォーカスしてしまいやすいですが、実はそこは本人で気づく以外にないところ。他人のこちらとしては、そこよりも、努力しているところを拾うことで、こちらとそちらの互いが気持ちよく結ばれ、その結果何かが生まれるという瞬間が起きます。
その結ばれるものとは、その人と自分の小宇宙であり、その二人の合わさった小宇宙に対して、二人互いにどのように対応するかによって、コミュニケーションの形は変わるものであるのです。
例えば結婚とか
この他人と自分の小宇宙を通して、コミュニティーのあり方というものへと意識を膨らませるのは、とても爽快感があり、癒しが起こりやすい土壌であり、安定と確立のある個人と個人が育まれる土壌のように思えます。
そこでの、その土壌でのコミュニケーションは、関係するすべての人と繋がっていることを自覚することになり、そこに意識を向けることができるようになることをもってして、合理的物質界の上にある、宇宙的視点から見た物質界への介入が起きてくるのです。
宇宙的視点からした怒りというものは、まずはエネルギーであり、怒りのエネルギーは葛藤を起こしているものであるという解釈のできるものでもあるし、感謝というエネルギーが湧くのは、歓びのエネルギーとセットになった時であるという解釈になったりもする。
物質的に解釈するものはネガティブであったり、ボジティブであったりするものに対して、宇宙的な解釈ではそうとは限らず、エネルギーというのは葛藤や摩擦によって生じる力学なのものであるという解釈が埋まれる。
それは同時に自分たちには、どんなものであってもしっかりと対処できるということを指すもので、どんなことがあっても私たちを支えてくれる宇宙と共に在るので、寂しいものでなくなっていきます。
物理的な合理的観念で通した人生観は、精神性と豊かな人生観へと向かわせてくれる、この地球での経験ということなのだろうと言えるのです。
そしてそれは寂しい体験から、騒がしい体験へと変わり、豊かさを実感することとなります。
無駄を見つめなおすだけで、自分らしい誇らしさは生まれます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?