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【アーカイブ】MTの偶奇性

(『CAR GRAPHIC』2017年9月号より転載、加筆・修正あり)

 理系か文系かと問われたら「200%文系です」と即答できるほど、数字を読み解く世界にはめっぽう弱いけれど、先日「0(ゼロ)は偶数か奇数か」みたいな文献に目がとまった。「偶数は2の倍数である整数」など、偶数の性質にあてはまるほとんどすべてを備えているので、0は偶数だそうである。偶数か奇数か。このどちらか一方の属性に定めることを偶奇性と言うらしい。

 そんなにわか知識を仕入れた後に、ルノーとマツダのMT車を運転していたら「MTは奇数、ATは偶数だな」となんとなくそう思った。プログラム通りにきちんと安定的に変速するATはきれいに割り切れる偶数のようで、ドライバーの判断と操作次第で反応が七変化するちょっと不安定なMTは奇数のように感じたのである。

 自動運転の進化が著しい昨今だけれど、考えてみればATは自動運転への第一歩だったとも言える。加速や減速、高速巡航、登り坂や下り坂など、MTは走行状態に応じて最適なギア段を自ら選ばなくてはならず、そのためにはいちいちクラッチペダルとシフトレバーを操作する必要がある。このたいそう面倒くさい作業から解放されて楽になりたいと切望するのは人間の生理現象のようなもので、知恵を絞り失敗を繰り返し、トルクコンバーターやプラネタリーギアを発明し、先人達はついにATを完成させた。楽をするための人間の底力とはなんとも凄まじい。

 ATが台頭してくると、あれほど煩わしいと思っていたMTが恋しくなったりもする。機械が変速を自動的にやってくれることで、クルマと繋がっていた1本の糸を失ってしまったような気分になってしまったからだ。

 詰まるところ、ドライバーはクルマとのダイレクト感に歓びを見出している。MTの操作に限らず、ステアリングを操舵したりペダルを踏んだりした時に、「いま自分はこのクルマを、手や足を使って直接動かしているんだ」と“繋がり”を実感することで心地よさを享受している。これら“快感の糸”は太く多いほど歓びもひとしおだ。だからMTであればいいというものでもない。カチッとしたシフトフィール、回転落ちのいいエンジン、ミートポイントが明確なクラッチペダルはもちろん、走る・曲がる・止まるの基本性能を司るそれぞれの糸が、ドライバーとクルマをしっかりとつないでくれたなら、そこにようやく極上のドライビングプレジャーが生まれるのだと思う。

 さらなる欲求を満たしたいと願う人間は、ATとMTを掛け合わせたようなDCTと呼ぶトランスミッションも開発した。通常はATのスムーズさに身を任せ、運転を楽しみたい時にはパドルやシフトレバーを操作してダイレクト感を味わう。では、DCTは偶数か奇数か。偶数(AT)と奇数(MT)を掛けると必ず偶数になる。だからやっぱりDCTはATなのだ。

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