火曜日のルリコ(14)

 金曜の夜、キール大統領の乗ったエアフォースワンは、予定通り羽田に到着した。

 羽田から都内のホテルまでの道程は、何十台もの車列が一切停止することなく疾走できるよう信号の操作が行われ、ホテルのチェックインも無事終了した。

 大統領はホテルで着替えただけで、火野総理との会食会場となっている、都内の有名寿司店に向かった。

 この夜、警備陣の大多数が羽田とホテル、寿司店周辺に配置されたため、翌日行事が予定されている四ツ谷の赤坂迎賓館周辺は、比較的警備が手薄になった。

 とはいえ、普段より格段に厳しい警備体制が敷かれていることは間違いなかった。

 日付が土曜に変わって少しした頃、自宅にいたルリコのスマホには、ラインで連絡が入った。久保田からだった。

 メッセージは短く、「うまくいった」とだけ入っていた。

 次は、ルリコが動く番だ。このままきっと、朝まで眠れないだろう。本当に、お肌に悪いことだ。

 

 迎賓館赤坂離宮は、日本で唯一のネオバロック様式の洋風宮殿建築である。

 江戸時代、この場所には、紀州徳川家の江戸中屋敷があった。

 中屋敷の敷地内には、西苑と呼ばれる庭園もあり、尾張徳川家の戸山荘、水戸徳川家の後楽園と並んで、徳川御三家の三大名園と呼ばれていた。

 明治の御代になって、紀州徳川家当主徳川茂承が敷地の一部を皇室に献上し、その場所に東宮御所が建てられることになった。

 設計者片山東熊は、東京駅の設計で知られる辰野金吾と一緒に、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家の草分け的存在であり、ヨーロッパ各地の宮殿をつぶさに視察して構想を得たと言われている。

 赤坂離宮の建設自体は、明治三二年に着工され、十年以上の歳月をかけて、明治四二年に完成した。

 しかし、完成した建物を見た明治天皇は一言、

「贅沢すぎる」

と述べたという。

 この仕事に心血を注いだ片山の落胆は、いかばかりであったろう。

 戦後になると、国立国会図書館や法務省法制意見局、弾劾裁判所などの政府機関がこの壮麗な建物を事務所として使用したことがあり、昭和三六年から四十年にかけては、東京オリンピックの組織委員会もここに置かれた。

 外国の要人が訪日した際宿泊する迎賓館として使われるようになったのは、昭和四九年からで、このときは村野藤吾の監修の下、六年かけて大改修工事が行われた。和風庭園にある別館も、このときに建設された。

 行政組織上、現在赤坂迎賓館は内閣府の施設等機関という扱いで、職員の大部分も内閣府の人間だが、外国の要人を受け入れるという施設の性質上、外務省や警察からの出向者もいた。

 そして、現在警視庁から出向中で、迎賓館で事実上の警備責任者を務めているのが、志水警備係長であった。

 志水はこれまで、捜査一課や機動隊、要人警護など、一線の、かなり危険の伴う部署での経歴を重ねてきた。そのような志水にとって、迎賓館の警備業務は、肉体的には非常に楽な職種と言えた。

 警視庁では警部を拝命していた志水であるが、国家機関である赤坂迎賓館では係長だった。それでも、志水はここでの勤務がけっこう気に入っていた。

 要人滞在中は泊り込みで帰宅できず、しかも片時も気は抜けないが、そう頻繁に要人が泊り込むわけでもない。

 大方の日々は、あちこちに四季折々の花々が植えられ、鬱蒼とした樹木に覆われた庭を散策し、主庭にあるグリフィンの噴水から夕日を眺めるうちに過ぎていった。

 しかしこの朝、志水警備係長は、少しばかり憂鬱な気分になっていた。

 もう一ヶ月も前から、首脳会議や記者会見の会場となるファンクションルームの事前視察ということで、アメリカ大使館の担当者が何度も迎賓館を訪れた。

 事前視察には、外務省北米一課の担当者も何人か同席し、その場でアメリカ側との調整を繰り返した。

 アメリカという国は、世界のどこへ行こうと、自国のスタンダードを押し通そうとする。同盟国日本に対しても、その点で妥協はしない。

 東京では、停電はまず起きないと何度も説明したのだが、記者会見中電源が途絶えてはならないとして、大容量の自家発電機を持ち込んだ。

 記者会見時の発言台は防弾になっているのに、さらにその前にスチール板を張り巡らすと主張して譲らなかった。

 大統領の導線についても、アメリカ側SPが先導することに固執し、人数の関係から日本外務省の儀典長が先行できなくなった。

 首脳会談の時間付についても、同行する報道陣の便宜を図るということで、報道陣が配置に就くまで首脳会談の開始を数分遅らせるよう強く申し入れてきた。そこで、記者団が彩鸞の間で取材位置に就く間、火野総理夫妻と大統領夫妻との懇談が行われることになったのだ。

 中東などの発展途上国では、直前まで行事の内容が決まらず、広範なグレーゾーンが残されたまま本番に突入したり、滞在中もイレギュラーな追加行事がいきなり加わることもよくあるが、細部までぎりぎりと詰めようとして次々に要求を出してくるアメリカの場合も、直前まで調整が整わなかった。

 こうした細かな交渉に何度も巻き込まれ、外務省の係員も迎賓館の職員もかなり消耗してしまったが、昨夜までにやっと両国の合意ができ、こうして首脳会談の当日を迎えたのだ。

 前夜には、館内に爆弾探知犬をめぐらせて最終チェックを行い、志水はそのまま職員宿泊室に泊り込んだ。ところが、この日目を覚ましたばかりの志水に、警視庁から緊急の連絡が入った。

 昨夜、二つばかり、奇妙な出来事があったというのだ。

 ひとつは、迎賓館北にある四谷見附公園で、婦人もののハンドバッグが発見されたことだった。

 この公園も、当然重点警備対象地域ではあったが、昨夜はキール大統領夫妻が到着したため、警備要員の大部分は羽田空港とホテル、それに非公式夕食会が行われた銀座のすし屋周辺に割かれていた。

 要人警護というものは、警護対象者の所在場所が最重点警備箇所となる。当然四ツ谷方面は、人員が手薄になってしまった。

 それでも所轄の四谷警察署では、時間を決めて迎賓館周辺に係員を巡回させていた。

 公園のベンチで問題のバッグを発見したのは、午前二時頃公園を巡回した担当の警官だった。彼はただちに、不審物として署に報告した。

 四谷署はまず、その前に巡回した係員に確認したが、この警官は、自分が見回ったときには、公園には何もなかったと証言した。

 このバッグは、色彩が非常に派手で、通常よりも大きく、しかもベンチの真ん中に置かれていたから、薄暗い街灯の明かりの下でも、これを見逃すということも考えられなかった。

 ということは、警官が巡回する隙を狙って、何者かが故意に置いていった可能性が高い、ということになる。

 深夜にもかかわらず、何人もの警官が動員され、爆弾探知犬も連れてこられた。

 犬だけでなく、携帯用金属探知機も使って確認したが、爆発物や、腕時計以上の大きさの金属の反応は感知されなかった。それでも、バッグを開ける役目は、完全防護の爆弾処理係が担当した。

 深夜の四谷見附公園周辺を十数人もの警官が遠巻きにするなか、爆弾処理係がそっとバッグを開けた。何も起こらなかった。

 中身を確認した係官は、片手を上げて他のメンバーを招いた。

 深夜の遠目だし、バイザーも付けていたからその表情は確認できなかったが、物腰から、彼が安堵していることがわかった。

 懐中電灯でバッグの中を照らすと、集まった全員が顔を寄せ合って覗こうとした。中には、紙片らしきものが見えた。

 ここで、本庁から駆けつけた鑑識係が招かれた。鑑識が、手袋をはめた手でバッグから取り出したのは、一枚の写真だった。

 その場にいた誰もが、何者かのたちの悪いいたずらと確信し、現場では軽口を叩くものも出たが、鑑識はバッグと写真を本庁に持ち帰った。

 鑑識の結果は、少しばかり不思議なものだった。そこで、本庁ではただちに、緊急の警備対策会議が招集された。

 まず写真だが、これは、火野総理夫妻が三月に福島の被災地を訪れた際、まったく私的に撮影したスナップで、一般には公表されていないものだった。とはいうものの、官邸記者クラブに常駐している大手マスコミ各社には、すでに配信されたものだった。

 つまり、第三者が入手することはそれなりに困難ではあるが、まったく不可能ではない、という類のものだった。

 なにしろ昨今では、中央官庁の幹部職員でさえ、ツイッターやフェイスブックで職務上の機密に属する事項まで発信するご時勢だ。誰かがネット上でこの写真を拾って、プリントしたということも考えられた。

 写真からは、不明瞭な指紋が一個だけ採取できた。警視庁のデータと照合したが、該当するものはなかった。

 次に問題となったのは、バッグそれ自体だった。

 このバッグは、火野由紀奈総理夫人が愛用しているものと同じ型だった。

 これは、メーカーが日本だけで販売した限定品で、値段もかなり張るものだ。単なるいたずらのために、誰かがこのバッグを購入したとすれば、あまりにも手が込んでいることになる。

 またこのバッグは、日本では正式な代理店を通じて正価でしか入手できないもので、本物であれば、内側に埋め込まれた金属板に通し番号が刻印されているはずなのだが、金属板の表面はやすりで削られており、番号がわからなくなっていた。

 バッグの中からは、この金属板の削りかすと思われる金属粉がかなり検出され、指紋の類を拭き取ったのか、全体に消毒用アルコールの痕跡があった。

 つまり、こういうことになる。

 何者かが、何らかの方法で、火野総理夫人と同じ型の高価なバッグと、一般には流通していない総理夫妻のプライベートな写真を入手し、ご丁寧に金属板の通し番号をつぶした上で、巡回する警官の隙を見てこれらを迎賓館近くの深夜の公園に置いていったのだ。

 さらに会議の場では、もうひとつ報告があった。

 警視庁通信指令本部に、奇妙な一一〇番通報があったいうのだ。

 この電話は、時間的にはバッグが見つかる少しばかり前にかかってきた。

 担当が受話器をとると、何か男と女の会話のようなものが一方的に流れてきた。なにやら、女の方が男に対し、火野総理夫人を操ってキール大統領を殺そうとしている、と一方的に責めたてている内容だった。

 本来は緊急通報のみを受け付けるべき一一〇番だが、時節柄、キール大統領訪日について歓迎する内容や批判的なもの、さらには警備にあたる警察官を激励するものまで、数知れない匿名の電話が殺到している。この電話も、そうしたなかにまぎれていたものだ。

 おそらく、バッグの事件で緊急の警備対策会議が招集されなかったら、わざわざ報告されることもなかったであろう。

 会議の場では、自動録音されていたその短い対話が再現された。

 会議を主催した警備部長は、大いに困惑した。

 一一〇番通報は、北区の公衆電話からかけられたという。しかし、深夜という時間帯を考えると、赤坂から北区まで車で移動するのに、さほど時間がかかるとは思えない。

 もし、公園にバッグを置いた人間と、一一〇番通報した者が同じだとすれば、犯人は警察に、何らかのメッセージを伝えようとしているのだろうか。

 なにしろ、いたずらにしてはあまりにも手が込んでいる。

 おまけに、今は迎賓館周辺には特別警戒態勢が敷かれており、バッグを置く現場を目撃されれば、不審者として逮捕されるおそれまであるのだ。

 一方、バッグも写真も、一般人が入手するのは困難というだけで、まったく手に入らない代物というわけでもない。バッグを置いた者と、電話の通報者が別人であり、二つのたちの悪いいたずらが偶然重なっただけ、という可能性もあった。

 警備部長は、本物の警告なのか、単なるいたずらなのか決めかねた。

 仮に警告だとしても、数時間後に予定される迎賓館での行事を中止するほど、差し迫った危険が確認されたわけではない。とはいえ、アメリカ大統領訪日の警備責任者として、最悪の事態も想定しなければならない。最悪の事態とは、この場合何だろう。

 とにかく、バッグの販売代理店にはすぐにでも連絡をとり、火野総理夫人以外でこのバッグを購入した人物を特定する必要があるだろう。赤坂迎賓館では、念のため火野総理夫人のバッグが紛失していないかどうか、総理夫人本人が現れた時に確認させることにしよう。迎賓館には、代々警視庁からの出向者がいるはずだ。

 会議では、そのような結論になった。

 こうして、ネコに鈴をつける役割が、志水係長に押し付けられたわけだ。

 警視庁からの指令は、総理夫人がいつものバッグを持ってきた場合、それが何者かにすりかえられていなことを確認せよというものだった。そして、確実に本人が買ったものだと確認するためには、バッグを開けて中にある金属板の番号を確かめる必要がある。

 そこで、志水係長は悩んでいた。

 誠に恐れ多いことながらバッグを開いて中を見せてください、と、総理夫人にお願いすることまではできる。自分だって数々の修羅場をくぐり抜けているから、それくらいの不躾なら、鉄面皮を装って実行する度胸はある。しかし、先方が拒否した場合、志水の立場ではそれ以上のことはできなかった。

 先ほど入った連絡では、火野総理は官邸での勉強会のため、由紀奈夫人だけが先に迎賓館に到着するという。同行者は、内閣官房の女性職員一人だけだ。

 夫人に対する失礼な要求の場に、総理本人が同席していないことは、志水の気持ちをほんの少しだけ楽にしたが、それでもやはり憂鬱だった。

 ただ、由紀奈夫人はかなり気さくな性格だという。その世評のみが頼りだった。

「総理夫人、正門入ります」

 逡巡する志水の耳の中で、イヤホンがささやいた。

 志水は正面玄関まで降りて数秒ばかり待機し、官用車が到着すると総理夫人側の扉を開けた。総理夫人は、噂の派手なバッグを腕にかけたまま車から降りた。

 官用車を見送ってから志水は、強持ての顔ができるだけ申し訳なさそうに見えるよう繕いながら、言った。

「まことにおそれいりますが、総理夫人。そのバッグは、ご自身のお持ち物ですよね」

 夫人より先に、女性係員が答えた。

「何をおっしゃってるんですか。このバッグは、総理夫人がご自身でお買い求めになった限定品ですよ。限定品だから、中の金属板には、20という番号が刻印されていますよ」

 生意気な係員の対応は、逆に志水を反発させた。

「すみません、その番号を、確認させてもらえませんか」

 係員が言い返すより早く、総理夫人があっさりとバッグの口を開いて、中身を志水係長に見せた。

「え」

「こ、これは」

 志水も、女性係員も、息を飲んだ。

「爆弾犬だ。早く。連れて来るんだ」

 

 

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