火曜日のルリコ(8)

 久保田は、じっとルリコを見つめた。

「もう一人の、池田さんとかは、どうだったのかしら」

 重い沈黙を破ったのは、優子だった。

「池田のケースも変なんだ」

 久保田は、ルリコを見つめたまま続けた。

「池田は若い頃から飲食店経営に乗り出し、かなり成功した資産家なんだ。ヴィンテージの高級外車を何台も持っているコレクターとしても有名だった。最近は、自分が見込んだ若い実業家にも出資してるんだけど、そんな人物が銀座の歩行者天国にベンツを乗り入れて八人もはねたんだからね。信じられない事件としてずいぶん話題になったよ」

「松村は、この事件も予言していたわね」

「そうだ。そして池田も、じつは松村と関わりがあったんだ」

「池田が松村と」

「そうなんだ。松村に開店資金を出資したのは、池田だったんだ」

「それじゃ、二人とも、松村と関係してたってわけなの」

「そうなんだ。そして、身柄を確保されたとき、池田は気を失っていた。それは、最後に建物に突入した衝撃で気を失ったんだと思われていた。しかし・・・」

 久保田は、一度言葉を切って、ルリコを見つめた。

「目が覚めたとき、池田は何をしていたか覚えていないと言った。そして取り調べの際、松村に金を貸したことも覚えていないと言ってるんだ」

「だって、証文は残ってるんでしょ。殺人事件の容疑者なら、当然家宅捜索も受けて、関係書類は押収されてるんでしょ」

「そうなんだ。押収された書類から、池田が松村に資金を提供したことは明らかなのに、池田は松村のことを一切覚えてないというんだ。だけど、池田が金を貸した相手を覚えていようがいまいが、犯行とは関係ない。池田が犯人だってことは明らかだからね」

「でも、変じゃない。あんな事件を起こした人物が二人とも松村の関係者で、、事件当時の記憶がない上に、松村のことを覚えていないなんて、何かあるんじゃない」

「うん、俺もそう思ったから、君に話そうと思ったんだ」

「でも警察は、二人がそろって松村のことを覚えていないのは、知ってるんでしょ」

「もちろん、取調べにあたる担当者は知っているんだけど、大田原を調べている警察署は、池田の事件を管轄する署とは別だ。二つの事件はお互いに関連はないと見られているから、双方の警察署で情報が共有されているとは思えない」

 久保田がそう言ったとき、突然、優子が声を上げた。

「わかった、謎は解けたわ」

「わかった?どういうことなの、優子」

 久保田も、横の優子を向いた。

「そう、どういうことですか、優子さん」

「わかったわ。すべてわかったの。何が起きたのか」

 このセリフ、まるでテレビ・ドラマの女探偵だ。

 霊感少女の勘なのか、ルリコにも、時々優子の思考が読めないことがある。

「説明して、優子」

「すべては松村よ。この男がみんなを操ってたのよ。大田原も、池田も、自殺したというマネージャーも。そしてルリコ、きっとあんたもよ」

「優子さん、操るって、いったい、どうやって」

 久保田も、優子の言葉を理解しかねているようだ。

 二人の訝しげな視線を順に見返して、優子はゆっくりと言った。

「ヴォルフ・メッシングって、知ってる」

 ヴォルフ・メッシング。この言葉に、久保田は、ただ黙って首を振った。しかし、ルリコには、なんとなく聞き覚えのある名前だった。確か、ロシアがまだソ連と呼ばれていた頃の人物だ。

「その名前、聞いたことあるわ。ソ連の超能力者か何かじゃない」

 ルリコがそう言うと、優子は、大きくひとつうなずいてから、言葉を継いだ。

「そう、ヴォルフ・メッシングは、ロシアがまだソ連だった頃の、超能力者よ」

 こう前置きしてから、優子が話し始めた。

「メッシングは、一八九九年にポーランドのゴラ・カルワリアでユダヤ人家庭に生まれたの。幼い頃から夢遊病に悩まされたけど、記憶力の良い子供で、父親はユダヤ教の宗教学校への進学を望んだわ。だけど本人はそれが嫌で、一一歳のとき無一文でベルリン行きの汽車に乗り込んで故郷を離れようとしたの。もちろん、切符なんて持ってなかったわ。車掌が検札に回ってきたとき、メッシングはどうしたと思う」

 こう訊かれて、ルリコもメッシングの話を思い出した。

「思い出したわ、優子。そのときメッシングは、床に落ちていた新聞紙の切れ端を車掌に見せたのよね。どうか車掌が、この紙切れを切符だと思ってくれますようにって念じながらね」

 優子もうなずいた。

「そう、もし無賃乗車がばれたら、少年のメッシングは列車からつまみ出され、家族の許に送り返されたでしょうね。メッシングは最初、車掌に見つからないよう座席の下にうずくまってたの。でも、そんなことで隠れられるわけもないわ。すぐに車掌が見つけて、車掌は彼に切符を見せるよう求めたの。そのときメッシングは、とっさに床に落ちていた紙切れを拾って差し出したの。どうか車掌が、これを切符だと信じますようにって、強く念じながらね。車掌は何度も紙切れを裏返して確かめてから、鋏を入れてメッシングに返したそうよ。そしてこう言ったの。切符を持ってるんなら、何も隠れる必要はないだろうってね」

「優子さん。失礼だけど、それ本当の話ですか。僕には、ちょっと信じられないんだけど」

 普通の人が聞いたら、こんな話信じられないのが当然だろう。だが、優子は毅然とこう返した。

「本当よ。メッシングの能力は、あのスターリン自身が確認しているの」

「スターリン!あの、ソ連の独裁者が」

「そう。ポーランドがナチス・ドイツに占領された後メッシングは、ヒトラーが東に向かうと破滅すると予言したためゲシュタポに追われて、ソ連に逃げたのね。ところが、彼の能力を聞きつけたスターリンが、彼の力を確かめようとしたの。スターリンはまず、国立銀行から十万ルーブルの金銭を引き出すよう命じたの。もちろん、ソ連に亡命したばかりのメッシングが、そんな大金を銀行に預けているはずないわ。でもメッシングは、言われたとおりの金額を窓口で引き出したの」

「どうやって」

「汽車の車掌のときと同じよ。メッシングは銀行の窓口で、何も書いてない白い紙を差し出したの。それを見た係員は、それを十万ルーブルの小切手だと思い込んだわけね。疑いもしないで大金をメッシングにわたしたそうよ。それだけじゃないの。スターリンは、もうひとつメッシングに難題をふりかけたの」

「あ、私知ってる。スターリンの別荘に侵入してみろって要求したのよね」

 ルリコの言葉に、優子がうなずいた。

「そうなの」

「なんだい、その別荘の話って」

 優子が、久保田に説明した。

「スターリンはメッシングに、自分の別荘に侵入してみろと要求したの。もちろん、別荘の警備員には誰も入れるんじゃない、と命令してたのよ。ところが、メッシングはゆうゆうと正門から別荘に入り、スターリンの執務室までノーチェックでやってきたの」

「どうやってですか」

「メッシングは別荘の警備員に、自分が当時の秘密警察長官だと思い込ませたのね。だから、誰も彼を止めなかったの。秘密警察長官だけは、スターリンの別荘に自由に出入りできたの」

「でも、ちょっと待って優子。車掌とか、銀行の窓口係は、メッシングのことや、自分の行動を忘れたりはしなかったのよね」

「それは、メッシングが忘れさせようとしなかったからでしょ。とにかくメッシングは、他人の思考を思うように操ることができたっていうわ。同じような能力を持つ人間が、他にいても不思議じゃないわ」

「すると優子さんは、松村がそうした力を持っているというんですか」

「きっとそうよ。だって、そう考えればすべてがうまく説明できるわ。火野総理夫人も松村の客だって言うじゃない。松村はユッキーナを操って、迎賓館での会見の際、キール大統領を殺そうとしてるのよ」

「でも、どうやって大統領を殺すっていうの」

「そうですよ、優子さん。いくら少人数の夫妻だけの会談といっても、通訳とかメモとりとか、他にも同席者はいますよ」

 久保田の言いたいことは、ルリコにもわかった。

 ユッキーナがナイフとかを持ちだして、その場で大統領に襲いかかったとしても、相手はアナポリス海軍兵学校出身の、筋金入りの軍人だし、その場にいる誰かに取り押さえられるかもしれない。そんなにうまくいくようには思えない。

 それに久保田の話によれば、松村に操られている人間は、その場にいる他人が発した言葉に盲目的に従うようだ。誰かがやめろと叫んだら、素直にナイフを捨てるのではないだろうか。

 久保田が、ルリコを代弁するように話を続けた。

「仮に、仮にですよ。由紀奈夫人がナイフとか持って暴れたりしても、その場にいる誰かが取り押さえるんじゃないですか」

「そうね・・・」

 優子も、目線を少し上にそらして、少し考え込んだ。

「でも、会談の場で、爆弾を爆発させるとかすれば、どうかしら・・・」

「えっ!」

「爆弾」

 久保田も、ルリコも息を飲んだ。優子は、静かに続けた。

「そういえば、あのドデカイ、センスの悪いバッグ。爆弾とか入れて持ち込んでもわからないんじゃない」

「自爆テロ・・・ってやつですか!」

 久保田の声が高くなった。

「しっ」

 優子が、唇に人差し指を当てる。ルリコも、そっと周囲の客の様子をうかがった。

 客たちの中には、一瞬三人の方を向いた者も何人かいたようだが、すぐに彼らも顔をそむけた。

「自爆テロ・・・。日本の総理夫人が、アメリカ大統領に自爆テロ・・・。そんな、そんなことになったら・・・・」

 久保田の声が震えている。

 

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