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文章読本 ー しんすけの読書日記

小学校の卒業が近い1958年の12月。婦人公論1月号の付録として本書に遭遇した。

その頃ぼくは文章が下手糞で、先生に赤線入れられてよく手直しされていた。
たとえば、こんな具合に。

 明珠が可愛くって食べちまいたくなる

先生はこれを、

 明珠が可愛くって目に入れても痛くない

と書き直す。
明珠って、当時のぼくのガールフレンド。ちょいとばかり伝法でんぽうでおしゃべりだったけど、ぼくには笑顔しかくれなかった。その笑顔が、本当に可愛いかった。
ってなわけで、少しくらい真面まともな文章が書けるようにって気持ちで、三島の『文章読本』を読みだした。

三島由紀夫 『文章読本』

それは次のように始まっていた。

 鑑賞用の果物というのがあります。一例が仏手柑で、これは見て、香りをたのしむだけのもので、喰べるものではありません。喰べて栄養になるという、いわば実用的果物とはちがいます。それでは文章にも、厳密に言って鑑賞用というものがあるでしょうか。昔はそういうような文章もありました。美文というものがあり、鑑賞用の特殊な美しい文章、たとえば支那の四六駢麗体へんれいたいのような文章が作られていたころには、文章技術はもっと職人的な特殊なものとされていました。

『文章読本』中公文庫p7

十二歳には分からないところが多かったが、なにか惹かれてしまった。
三島の文章が人の心を捉えて虜にするのことを身体で感じたからに違いない。

現代では文章を味わう習慣よりも、小説を味わうと人は言います。彼の文章がいいという言葉はほとんど聞かれず、彼の小説はおもしろいと言われます。ところが文章とは小説の唯一の実質であり、言葉はあくまでも小説の唯一の材料なのであります。あなた方は絵を見るときに色彩を見ないでしょうか。ところが言葉は小説における色彩であります。あなた方は音楽を聴くときに音を聴かないでしょうか。ところが言葉は小説における音譜なのであります。

『文章読本』中公文庫p44

そして森鷗外の『寒山拾得』に触れたものに至ったとき、その簡明性に感激し陶酔するものを感じていたに違いない。

鴎外の文章から先にはいりますと、この文章はまったく漢文的教養の上に成り立った、簡潔で清浄な文章でなんの修飾もありません。私がなかんずく感心するのが、「水が来た」という一句であります。この「水が来た」という一句は、全く漢文と同じ手法で「水来ル」というような表現と同じことである。しかし鴎外の文章のほんとうの味はこういうところにあるので、これが一般の時代物作家であると、間が小女に命じて汲みたての水を鉢に入れてこいと命ずる。まして文学的素人には、こういう文章は決して書けない。

『文章読本』中公文庫p52

そうか文章って余計なことを書いちゃいけないんだ。と三島に感銘していた鼻タレが、そこにいた。
思ったことを、手を加えずに率直に書くことが良い文章なのだと、何となくわかるような気がした。

そして最後に気が付いた。文章は手習いじゃないんだって。
暑中見舞いや年賀状。そんなものは磨く必要もない。それは慣習文でつまらん礼儀作法でしかない。

良い文章って、ちょいとばかり心の丈をエロチックに表現したものなんだ。

だから、ぼくはもとに戻す。

 明珠が可愛くって食べちまいたくなる

明珠とは、もう六十年以上あってないけど。


追記:
斎藤美奈子が云うように、中央公論社の文章読本シリーズは文章修行の本ではない。
書く作家に惚れ込まないことには、陶酔して読むことはできないものなのだ。
だから、同じ文章読本でも谷崎潤一郎のものには陶酔できなかった。谷崎の読本を読んだのは二十歳過ぎだということも考慮せねばならない。

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