文章読本 ー しんすけの読書日記
小学校の卒業が近い1958年の12月。婦人公論1月号の付録として本書に遭遇した。
その頃ぼくは文章が下手糞で、先生に赤線入れられてよく手直しされていた。
たとえば、こんな具合に。
明珠が可愛くって食べちまいたくなる
先生はこれを、
明珠が可愛くって目に入れても痛くない
と書き直す。
明珠って、当時のぼくのガールフレンド。ちょいとばかり伝法でお喋りだったけど、ぼくには笑顔しかくれなかった。その笑顔が、本当に可愛いかった。
ってなわけで、少しくらい真面な文章が書けるようにって気持ちで、三島の『文章読本』を読みだした。
それは次のように始まっていた。
十二歳には分からないところが多かったが、なにか惹かれてしまった。
三島の文章が人の心を捉えて虜にするのことを身体で感じたからに違いない。
そして森鷗外の『寒山拾得』に触れたものに至ったとき、その簡明性に感激し陶酔するものを感じていたに違いない。
そうか文章って余計なことを書いちゃいけないんだ。と三島に感銘していた鼻タレが、そこにいた。
思ったことを、手を加えずに率直に書くことが良い文章なのだと、何となくわかるような気がした。
そして最後に気が付いた。文章は手習いじゃないんだって。
暑中見舞いや年賀状。そんなものは磨く必要もない。それは慣習文でつまらん礼儀作法でしかない。
良い文章って、ちょいとばかり心の丈をエロチックに表現したものなんだ。
だから、ぼくはもとに戻す。
明珠が可愛くって食べちまいたくなる
明珠とは、もう六十年以上あってないけど。
追記:
斎藤美奈子が云うように、中央公論社の文章読本シリーズは文章修行の本ではない。
書く作家に惚れ込まないことには、陶酔して読むことはできないものなのだ。
だから、同じ文章読本でも谷崎潤一郎のものには陶酔できなかった。谷崎の読本を読んだのは二十歳過ぎだということも考慮せねばならない。
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