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日本ラグビーの歴史が変わった日

15の春に楕円球と出会いはや40年。高校大学では選手として、その後はファンとして、現在は小学生の息子のラグビースクールのコーチとして長くラグビーと関わってきた。これまで数えきれない程の様々なカテゴリーの試合を観てきた中で、私がダントツ一番の衝撃を受けた試合、それは2015年9月19日にイングランド・ブライトンで行われた第7回ラグビーW杯の日本対南アフリカ戦である。この試合はスポーツ史上最大の番狂わせとして世界中に「ブライトンの奇跡」と報じられ、2019年には「ブライトン・ミラクル」というタイトルで映画化もされている。

南アは世界に冠たる巨人国で、かのオールブラックスと互角の対戦成績を残す唯一のライバル、ラグビー王国である。当時の世界ランキングでは南アが3位で日本が13位。W杯通算成績は南アが25勝4敗勝率.862で優勝2回に対して日本は1勝21敗2分勝率.0045で1991年以降24年間勝利がなく、過去全大会で一次リーグ戦敗退。W杯最高勝率国と最低勝率国の戦いであり、当然ながら試合前のオッズは南ア1倍、日本34倍と賭けの対象にもならない試合だった。

ところがこの日の日本はキックオフから勇敢に南アに立ち向かった。足元に突き刺さるタックルで巨人たちを止め続け、世界一低いスクラムを組んで一歩も押し負けず、身長差のあるラインアウトでもしっかりとマイボールを確保した。試合は南アの体格を生かしたパワープレーに対し、日本も敵ゴール前でフォワードの密集戦を押し込んだリーチ・マイケルのトライやバックスの鮮やかなサインプレーからのフルバック五郎丸歩のトライ、正確なゴールキックなどで渡り合い一進一退の攻防が続く。そして3点ビハインドの後半ロスタイム、ゴール前の絶好の位置で得た反則で同点引き分けのペナルティゴールを狙わず、スクラムから逆転トライを狙う勇敢な選択をリーチ主将がしたところで会場のボルテージは最高潮に達した。総立ちの観衆の「ジャ・パン、ジャ・パン」の大声援に後押しされたラストプレーは、南アゴール前で日本の連続攻撃が続く。右端の密集から出たボールは大きく動いてセンター立川理道から2人飛ばしのロングパスでNO.8アマナキ・レレイ・マフィへ。さらに右手一本で敵を突き飛ばしたマフィからラストパスを受けた左ウイングのカーン・ヘスケスがタックルを受けながらもぎりぎりゴール左隅に飛び込んだ瞬間、会場のみならず世界中のラグビーファンがTVの前で絶叫した。

この試合を観たサッカー選手のマイケル・オーウェンは「Fortune favours the brave(幸運の女神は勇者にこそ微笑む)」という格言をツイートして日本代表の勝利を讃え、ハリーポッターシリーズの作者J・K・ローリングは「こんな試合は書けない…」とツイートした。世界中が奇跡の勝利と報道する中で、勝利の立役者となった五郎丸はしかし冷静にこう語っている。「これは奇跡じゃなく必然です。ラグビーには奇跡なんてありません。」この劇的勝利には確固とした理由が存在したというのである。

「自分が日本ラグビーを救うのだ、という使命感をずっと持ち続けてきました。私は長い間日本のラグビーに関わってきて、この国にも良い選手がたくさんいることを知っている。彼らは勤勉で、忍耐強く、ハードワークを厭わないということを知っている。ラグビーを愛するファンがたくさんいることも知っています。それに相応しい代表チームがあるべきなのです。そして、それを世界に知らしめるチャンスはW杯しかないのです。」これは劇的勝利から遡ること3年、エディ・ジョーンズ日本代表HC(当時)就任時の言葉である。エディは豪州生まれだが母親が広島県にルーツを持つ日系米国人2世で、彼の妻もまた日本人である。東海大学でコーチとしてのキャリアを開始し、サントリーHCとして日本一にもなっている。このように日本を熟知している一方、W杯では豪州HCとして準優勝、イングランドHCとして準優勝、テクニカルアドバイザーとして南アを優勝に導いた世界的名将である。

そのエディがW杯で勝つために日本代表に課したのは、理不尽なハードワークであった。何度も長期合宿を張り、毎日早朝5時からの3部練習を敢行。徹底的にフィジカルを追い込む強度の高い練習を限界まで繰り返した。最新のコンディショニングの観点から見てこの猛練習は、非科学的で間違いだらけだったが、実はそれをエディはわかっていた。しかしそれは今までの概念を覆すぐらい練習しないと日本はラグビーで世界の強豪に勝てないぞ、という意識を選手たちに植え付けさせるためのものだったのである。

そうして実際に南ア戦の後半20分過ぎ、すごく強いと思っていた相手が目の前でめちゃくちゃキツそうな負けたような顔しているのを見た日本の選手は「あ、これ勝つゲームなんじゃないか」と感じ、それまでずっとエディの理不尽な猛練習に「なんでこんな意味のないことやるんだ」と思っていたはずなのに「このためにやってたんだ、最高の楽しみじゃん」と思ったという。

この勝利によって日本ラグビーの歴史は大きく変わった。それまで世界のラグビー強豪国に対して善戦はしても心のどこかで勝利をあきらめていた負け犬のメンタリティーから、我々がしっかり準備をして戦えばどんな相手であっても勝てるのだという自信に変わり、ファンもまた桜のジャージに誇りを持てるようになったのだ。その後の日本代表の躍進は皆さんもご存知の通りで、直近W杯2大会の成績は7勝2敗。2019年は自国開催の重圧の中で強豪国アイルランド、スコットランドを見事に撃破して初のW杯ベスト8に進出し、列島を熱狂させた。

2023年秋、フランスで行われる次回W杯ではまたしても日本の前にイングランド、アルゼンチンという強敵が立ち塞がる。昨年の前哨戦ではイングランドに完敗した日本がそれを分析して本番ではどんな戦いを挑むのか、果たして3大会連続のジャイアントキリングが成るのかを我々のみならず世界中のラグビーファンが注目している。そして10月8日にナントで行われるプールD最終戦のアルゼンチン戦はおそらく決勝トーナメント進出をかけた大一番になるはずだ。昨年はイングランドにも勝ち、敵地で史上初めてオールブラックスにも勝った今絶好調のアルゼンチンとの熱い一戦は見逃せない。私もこの日は現地のスタジアムで桜の戦士の勇敢な戦いをこの目にしかと焼きつけるつもりである。

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