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「悪魔の代弁者」と言われて気づいた話

子供のときから、ずっと不思議に思っていたことがある。

「どうしてみんな、自分の思っていることをお互いに伝えないんだろう?一緒に話し合えば解決するかもしれないし、色々な意見が聞きたいのに。」

しかし、意見が聞けるのは大概なにかが起こってから。
手のひらを返したように異論をぶつけられると、もう昔から経験していることなのに、いつも戸惑ってしまう。

逆に、いろいろなテーマで深く議論が出来た日は最高だ。
議論の根底にある、論理を通して「誰かと繋がった」という感覚。これが好きで、それが出来た日には何にもまして喜びを感じる。

自分と違う意見に出会うと、「この人はこういう考え方をするんだ!」と驚き、ワクワクする。終いには、その人の意見と組み合わせて自分の考えや視野がより広がっていく感覚に、充実感を覚える。

もっと教えてほしい。もっとさらけ出してほしい。
そこには原理の究明や何か達成したい目的などなく、「ただ楽しいから、ただ知りたいから」議論している自分が存在する。

そうやって20数年生きてきたのだけれど、
ある日、そんな自分が「好戦的」だと捉えられることを知った。

みなさんは、16 Personalitiesという性格診断テストを受けたことがあるだろうか。


16Personalities性格診断テストは、読者から非常に正確で、「ちょっぴりゾッとする」と言われています。


ENTP型「討論者」というタイプに診断された自分から言わせてもらうと、決して安易な気持ちで性格診断テストを受けてはいけないと思う。

なぜなら、自分はこの診断テストを受けて3回ゾッとしたから。

ゾッとした瞬間 その1:「悪魔の代弁者」

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どれどれ、と説明文を読み始めると、驚愕の言葉が並んでいた。

「討論者型の人達は、究極の悪魔の代弁者で、議論や信条を木端微塵にして、その切れ端を皆の目に届くよう風になびかせるといった過程を生きがいにしています。」

……悪魔の代弁者?!

議論好きとは言え、一応社会的にうまくやっていけているはずだし、そんな邪悪な使者みたいな性格をしているはずはない。

しかし、使われている言葉の数々があまりポジティブではないので、自分の性格が客観的に見て大丈夫なものか、不安になり始める。

ゾッとした瞬間 その2:身に覚えのある過去

一通り読み終わった後、どうしても「悪魔の代弁者」というフレーズがひっかかり、Google先生に聞いてみる。

カトリック教では或る故人を聖列に加える際に、 誰かが「悪魔の代弁者」として指名されて、 その人が故人を可能な限り非難する。 それでもやはり偉大な人物であることが示されれば、 晴れて聖人になれるそうだ。 転じて、論争などであえて反論を唱える人もこう呼ばれることがある。

出典:
http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/devil.html


議論の質を高めるときには貴重な存在かもしれないが、だいぶ厄介な存在だということは分かる。「そこまででは無いだろう...」と過去を思い返した瞬間、象徴的なシーンが2つほど浮かんでしまい、その場で固まった。

①全員一致の流れだったにもかかわらず、断固として反対意見を出す

小学生の頃の思い出。だいぶ昔のことなので今ではなぜ一人だけ異論を唱えていたが分からなかったが、自分の信条みたいなものに従っていた気がする。ただ、そこにあまり論理はなく、ただの天邪鬼だった可能性が高い。

②クラスのその他全員とは違う選択肢に手を挙げる

大学生の頃の思い出。ある事象が起こった原因は何か、教授が2択問題としてクラスに問いかけた。クラス全員が選択肢Aに手を挙げる際、自分ともう一人だけが選択肢Bに手を挙げた。教授は不思議そうに自分を見つめたが、なぜか自信はあった。
(その瞬間にクラスは笑いに包まれたのだが、答えは選択肢Bだった。)

つまり、議論の場ではマイノリティ側であることが多かった。
そしてその性質は「悪魔の代弁者」に近いものだった。

ゾッとした瞬間 その3:無意識が生んだ強制力


さて、討論者の説明文をもう一度振り返ってみる。
すると、自分がこれまで良いと思っていたことが、他人にとっては「強制」だったかもしれないことに気づいた。

より繊細な人や社会一般の人々は、対立を嫌うことが多く、気持ちを優先に考え、心地良い雰囲気を好み、不快な真実や硬い良識に対して、罪のない嘘さえつきます。

この世の中には、自分の意見を言いたくない人だっている。「和を尊ぶ」ような人ならば一層、議論なんて望ましくないと考えるのだろう。

今まで他人が意見を言ってくれないときは、本当は言いたいけれど、その環境がうまくできていないからだと思っていた。

「もしお互いに心を開けるような環境を作れば、より深い考えに触れられるかもしれない。」
そう思い、自分の望むことをまず差し出そうと、積極的に自分の意見や感情を相手の前にさらけ出すことを心掛けていた。

その取り組みは間違っていないと思う。しかし、自分と同じぐらい相手は議論したがっているという無意識の前提に立ち、相手にあまりにも深い意見を求めすぎていた傾向にあった。

どうしたら押しつけがましいこの性格を直せるのだろう?
答えは明白だった。

「深さは相手に任せること」

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最近読んだ本に、とてもいい言葉が書かれていた。

ファシリテーターであり、米国聖公会の牧師でもあるレング・リムは、どこまで打ち明けられるかは人それぞれだということを、プールにたとえて話してくれた。

リムはビジネススクールや農場などで様々な集まりを開いている。どの集まりでも、親密なつながりが持てるように心がけているがが、どこまで深くつながるかは参加者の自由だとはっきり伝えるようにしている。

「プールがあるとしよう。一方の端は深くて、一方は浅い。どちらからプールに入るかはあなたが選んでいい。心の奥深くにしまっていた秘密を話したければ、話せばいい。でも、浅い話をしたければそれでもいい。少し身体を濡らすくらいが楽なら、それでいい。あなたにとってのありのままを出せばそれでいい」

出典:プリヤ・パーカー著・関美和訳『最高の集い方』(プレジデント社)


これは、一種の他人へのやさしさであると思った。

誰かを深く理解したいという欲求はあってもいい。
しかし、相手がどれぐらい差し出してくれるのか、その深さのレベルは相手に委ねるべきだ。

「悪魔の代弁者」と評価されているぐらいなので、正直なところ、他人の気持ちを慮ることは非常にタフだと感じることがしばしばある。

しかし、相手に対し妥協や配慮を心がけることで、「好戦的」ではなくもっと「好意的」と感じてもらえるのであれば、それこそ両者にとって最高な体験を得ることができるはずだ。

問題を認知しただけで、まだ道半ば。
「討論者」タイプの人間は、口先だけで行動が伴わない場合も多い(残念ながら非常に身に覚えがある)。自分の欠点を自覚しつつ、相手に深さを任せるように少しずつ行動を変えていきたい。

最後に

今回紹介した『最高の集い方』という本では、人との接し方、人の動かし方というものを様々な事例を紹介しながら分かりやすく教えてくれる。ボリューミーなのに、すっと読み終えてしまう良作だ。


特に、お互いをさらけだすようなイベントにおいて、「物語が心に響くのは、人の弱さを語る時だ」と語る章が気に入った。

たいていの場合、noteでは自分の弱さをさらけ出すことしている。自分の影を認知し、克服する方法を考え、それを発信することの繰り返し。

もしかしてそれは、あなたの心に響いているのだろうか。

知る由もないが、未知を想像するのは楽しいことだ。

来週からまた頑張りましょうね。


TOP 画像出所:https://jp.freepik.com/free-vector/group-of-people-with-speech-bubbles_5825572.htm
「悪魔の代弁者」 画像出所:https://jp.freepik.com/free-vector/evil-boss-character_1104461.htm#page=1&query=Evil&position=14
「深さは相手に任せること」画像出所:
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