本になる人生と考え方らしい

波瀾万丈とは思えない価値観でも人にとってはハードボイルドな人生に見えるという話。

24歳で会社の起業を行ない、10年間で年商20億円の洋菓子チェーン企業になった。
…が、結果的に会社の乗っ取りに遭い自分の甘さによって多くの仲間や家族友人を傷つけてしまった。

そこからは家族を養うにも事欠いて、何でもやった。
海外企業の日本誘致
日本企業の海外進出
飲食店立ち上げのコンサル
吉野家のバイトに落ちる
雑踏警備
所謂貧乏路線まっしぐら。出会う人出会う人全てが質の低下を感じるもそれは自分の人的価値が落ちている証左と内心知るものだから認めずに騙されて続けた。

それでも自らの経営力の行使にも疲れてドライバーの道に入りしばらく慎ましくも安定の時期を過ごす事が出来た。
沢山稼いだって結局沢山出ていくし、誰も彼もが私のカネに靡いていて信頼できる友など一人もいなくなっていた。
それじゃあないんだよ‼️って言い聞かせても、過去の栄光が邪魔をして直ぐに道を踏み外した。
そんな日々が疲れてしまい、家族にも疲弊の色が濃くなっていた頃にドライバーになった。

警備員の時には、ついこの間まで彼等の思いや大変さを全く知らなかった。
ドライバーの時には、そのつい数年前まで自分が後席に座っていたのだけど、実際にその為にどれだけの苦労と準備が為されていたかを知らなかった。

私は思い上がっていたのだと感じて、同時に恥ずかしさや虚しさを感じてはいたけど、経営者の頃に感じる事の出来なかった家族との時間の大切さや安定というささやかでも暖かく過ごせる時間が私には十分過ぎるほどの癒しとなった。

そのドライバーも数年後には危機が訪れた。
糖尿病の発症による目の病気が疑われ、空腹時血糖値が400を越える事態となり、ドライバーとして生涯を終える事は出来ないと悟った。そんな折にある制度を用いた地方移住の声がかかった。

私は今回の人生の選択には家族の同意が得られなければ歩けないと感じていた。
妻だけでなく、まだ中学生の息子や小学生の娘にもきちんと話をして問うた。
妻は私といる世界ならどこでも良いと言ってくれた。息子もチャレンジャーだったが娘だけは当初はせっかく出来た友達との別れを嫌がったのだけど息子がどうやら説得してくれたようだった。

かくして終の住処を求めた初めての本格移住を果たした。
3年間の間に事業を興すか職を決めないと生きていけない制度だったので、私のキャリアの場合だと経営者の道を再度選ぶ流れだった。

事業は奇跡的に興せたが、またもや過去の驕りが私の目を曇らせた。
引き入れる地元の人は全く仕事をせず、ただただ受けた融資の金を食い潰していった。
そして会社が空っぽになると同時に霧散していった。
その頃にコロナ禍がやってきた。
外国人就労者がいたが、仕事が無くても国に帰せず、その子達の生活を守るために家族と自分の健康を犠牲にした。
そして気がつけば私は以前からトラブルのあった糖尿病による急激な悪化が元で、両目共に網膜症を発症、徐々に目が見えなくなる恐怖と日々調子が悪くなる身体と戦っていた。
病院に行く金も無い状況で一年が過ぎようとしていた頃、とうとう横になって寝られなくなっていた。
横になるだけで溺れるような状態になり、夜も座ってうつ伏せで寝るまでになったのだが、それでも苦しさと動悸不全が重なり、もうダメだと思い妻に頼んで病院に担がれていった。

病名は急性腎不全で末期。目の状態も右目は失明寸前で左目は辛うじて見えていた。
先ずはそのまま入院となり緊急透析をカテーテルで受ける事となり、心臓の不整脈もかなりあったようで家族に覚悟するようにと話もあったようだった。

そこから1ヶ月半はシャント手術や透析の段取りがあり、ようやく退院出来た頃には次に目の手術が待っていた。

その間の会社は妻が二人の外国人の子達と何とか回してくれていたが、儲かる事もなく、ただただ金融機関にひたすら謝りながら時が過ぎるのを待つしかなかった。

目の手術は右目は画面が歪むものの光を失わずに済み、左目は白内障の手術と合わせてどうにか復活。
免許証の更新が出来るまでに回復する事ができた。
この目の手術。本来なら実は費用の関係で出来なかったのだけど、唯一移住先で私の事を大切に感じてくれていた母のような方からのご支援で受けられたのだ。
もし、彼女との出会いがなければ今頃は私は盲目の中で今のような仕事をする事も無くただひたすら生きるだけの存在になっていたかと思う。
そこまでは残酷過ぎるほどの下降曲線での人生だったのだけど、母のような方との出会いから私の人生は徐々に変わり始めた。

続きはまた今度。

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