かけられて嬉しい迷惑

「迷惑」考。
一般に、迷惑はかけてはいけないもの、もし迷惑かけたら相手は怒って当然、だから迷惑をかけないようにしないといけない、とよく言われる。でも、私は「かけられて嬉しい迷惑」というのもあるように思う。

歌人の俵万智さんは、東京暮らしのときはずっと「人様に迷惑をかけない子に」と思って子育てしていたという。ところが南の島に移住すると、ご近所の方が何くれとなく世話をしてくれる。「そんなご迷惑な」と言うと、不思議な顔されて。へ?何が迷惑なの?という反応。それを見て俵さんは。

子育ての考え方を「コイツになら迷惑かけられても構わないや、と思ってもらえる子に」という風に改めるようになったという。
では、どういうときに「迷惑かけられても構わないや」と思ってもらえるのだろう?むしろ「迷惑だなんてとんでもない、お安い御用だよ」と喜んでもらえるのは?

私は、かけられて腹の立つ迷惑と、かけられて嬉しい迷惑の2つがあるように思う。後者の迷惑は、相手ができる限りの精一杯の努力をしていて、でもどうしても自力では解決できないとき、そしてそれをこちらが大した負担感もなしに解決できるとき、のように思う。そうした迷惑は、むしろ嬉しくなる。

「コイツなりに精一杯やったけど、どうしても自力で解決できないと思ったときに、俺を頼ろうと思ったということは、俺を頼りになると思ってのことかな。コイツにできないことを、俺は提供してやれる。確実にお役に立てる。ああ、俺、生きてて良かったんだな。生まれてきても構わなかったんだな」と。

人間って、根源的な不安があるように思う。「自分はこの世に生まれてきてよかったんだろうか?生きていて構わないんだろうか?」と。そう思える確証がほしい。そんな中で頼られると、自分の存在意義を見つけられたようで嬉しい。特に、相手が最善を尽くしてなおできない部分を自分が補えるとき。

不可欠感を覚えることができる。そんなとき、生きていてよかったな、生まれてきて構わなかったんだな、と、自分で自分を認められる。そんな承認欲求を満たしてくれるのが「かけられて嬉しい迷惑」。こうした迷惑は、むしろ嬉しいから「どんどんかけて!」と言いたくなるように思う。

他方、腹の立つ迷惑は、「いや、それお前自力でなんとかできるやろ?自前でなんとかしようとせんで何甘えとる?」と感じるもののように思う。精一杯努力していない、余力を残してサボってると思われたとき、イヤな迷惑だと感じてしまうらしい。

私は人に頼るとき、「コレコレこういうのは自力でなんとかできます。でも私の力では、ここのところがどうしてもできません。なんとかご助力願えませんでしょうか」と頼んだとき、その助力が相手にさしたる負担でもないなら、まず断られたことがない。たいがい喜んで引き受けてくださる。ありがたい。

対照的な二人の学生がいた。二人とも苦学生。ただし周囲の反応が正反対で、片方は周囲が放っておかず、何くれとなく世話したがるのだが、もう片方はできるだけ距離を置き、世話したくないという反応になっていた。何が違うのだろう?と観察してみた。すると。

前者の学生は、他の人間に頼ろうとしていなかった。自分でできることは全部自分でやる、という覚悟を持っていた。その一方、「おかず作りすぎたんたけど、食べる?」と持ってきてくれたものには、ものすごく感謝した。「ありがとうございます!ムチャクチャ嬉しいです!」こんな幸運はない、って感じ。

それだけ喜んでも、次をねだろうとしない。やはり自分でできることは全部自分でやる、という覚悟はそのまま。すると、周囲は少しでも負担を軽くしてやろうと、何くれとなく世話を焼きたくなるらしい。その世話一つ一つを「助かります!ありがとうございます!」と感謝。

世話する側は、提供しているかに見えて、頑張ってる人間の負担を軽くしてやることができた、という貢献感を味わうことができていた。ある意味、プレゼントされてる感じ。だからよけいに世話したくなるようだった。
他方、後者の学生は。

何かしてもらったら「ありがとうございます」ともちろんお礼は言う。言うけど、「もっとこうしてくれるといいのに」と、次をねだる。こんな助力程度で俺が助かると思うなよ、俺は苦労してるんだからもっと好意をよこせ、ってな感じ。一度は世話した人も、もう二度としてやるもんかと固く誓ってしまう。

「俺は苦学生なのだから周囲が世話するのは当たり前」という態度。これではまるで、好意を吸い込んで放さないブラックホール。底なし沼。みんなそんなのに足を取られたくないから逃げる。その苦学生には、苦労してるのがわかっても手出ししたくなくなる様子だった。

前者の学生に対しては、好意をいつ届けるかは、提供する側の自由意志だった。上げてもいいし、上げなくても構わない。上げなくても学生はなんとも言わず、なんとかする。でも、上げるとムチャクチャ喜ぶ。こういう関係性だと、世話することが負担感なく、楽しくなってしまうらしい。喜ばすゲームみたい。

でも後者の学生の場合、してあげれば上げるほど「もっと、もっと」。重い。まるでこちらは奴隷で、相手は主人みたいな関係性になってしまう。「こんなもので満足すると思うなよ、もっと、もっと寄こせ」。自由意志で上げるのではなく、服従して差し上げなければならない。まさに奴隷。

こうした事例を眺めていくと、迷惑は必ずしも迷惑に思うわけではない。嬉しい迷惑というのは確実にあるように思う。ただしそれには条件があって、
・自分でできることは精一杯やる。
・自分にはできない、でも相手には大きな負担感なしにできることを頼む。
場合は、むしろかけられて嬉しい迷惑なのではないか。

迷惑は迷惑なのだけど、どうせならイヤな思いをせずにいて頂きたい。そのためには、自分でできることは精一杯やる。その上でなら、人に頼っても構わないと思う。案外人間はそういうとき、気持ちよく引き受けてくれる人のほうが多いように私は思う。

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