自己肯定感が低い≒自己評価が高い

知人が発した、今日(200920当時)の名言。
自己肯定感が低い≒自己評価が高い

日本の若者は自己肯定感が低い、というけれど、実は「自分は社会の中ですごいことをやり遂げるはずの人間だ」「特別な人間なんだ」という、脳内世間様に拍手喝采されるはずの高い自己評価に追いつかない自分の現実を目の当たりにして、自己肯定感が低いんじゃないか、という説。ああ、これ、納得。

大学で不登校になるパターンは、比較的このパターンに該当するケースが多いように思う。高すぎる自己評価に追いつけない自分に愕然として、どうしたらよいかわからなくなり、不登校になる。問題は自己肯定感が低いのではなく、高すぎる自己評価ではないか、という分析。思い当たるケースがいくつも。

「こんなことできてすごいよね、将来はもっとすごい人になるのかな」という「ほめ育て」をされ、大人の期待に応えるビッグな人間に私はなるんだ、と、天井知らずに自己評価を高めて、いよいよいい年になってきて、現実の自分を突き付けられた時、激しく落胆する。「ほめ育て」の弊害の一つかも。

今日出てきたもう一つの名言が「向上心はあるけど好奇心はないよね」。ああ!そう!
脳内世間様に拍手喝采されるため日夜努力する。すごい人間、能力の高い人間とほめそやされる脳内スターの自分。そうした向上心がとても強いけれど、自分のことにも身の回りにも自然に対してもさほど好奇心がない。

世間に評価されるために本を読む。知識を身に着ける。それもこれも、ほめられるため。世間(脳内だけど)に評価されるため。だから向上心はやたら強いけど、目の前の田んぼで稲穂がたれたり、赤とんぼが飛んだりするのを楽しむ好奇心は、必ずしも強くない。そんなものに興味持ってもほめられないから。

高い自己評価に見合う自分になるために、強い向上心を持って努力したけれど、「どうやら現実の自分はそこまででもないらしい」となったとき、絶望してしまう。なぜか。現実のこの世界に、たいして好奇心がないから。世間(脳内)の評価を得られないなら、自分の存在価値がないと感じてしまう。

ところが、脳内世間の評価なんか気にせず、自分という存在に、身の回りに、自然に対し好奇心があると、生きているだけで楽しい。世界を肯定し、その世界に生きている自分を肯定できる。こんな興味深い世界の中で、生きている自分も興味深い。好奇心があれば、生きているだけで自己肯定。

なぜ脳内世間様の評価が得られないだけで絶望し、わざわざ自分を嘆き悲しむ必要があるのか。空を見ろ。星を見ろ。おもろいやん。おもろいと思う自分もおもろいやん。それだけで十分生きていることはおもろい。世界はおもろい。自分も世界も肯定できる。向上心より好奇心のほうが、肯定しやすい。

「俺は昔こんな大きな商談を成立させたことがあって」「いや俺はもっとビッグなビジネスを」とマウンティングし、評価において負けるもんかとやりあうけれど、いったい何をしているんだろ?いや、大きいかどうかなんてどうでもいいやん。その仕事が面白いか、好奇心を満たすものかどうかで。

向上心よりは好奇心を。自然の不思議さ、神秘さに目を瞠る感性、センス・オブ・ワンダーを。「なんやこれ?」と、起きている間は好奇心でわくわくして生きていたら、楽しいやん。おもろいやん。みんな、脳内世間様に振り回されすぎ。
あ、「脳内世間様」も名言だ。うん。

もう一つ名言。親や大人から「お前はきっとすごい人間になる」と期待されるのは「タカられている」のだと。いわばカツアゲされているようなものだから、期待されると、それに応えねばとつらく感じる。親から、大人からの期待はタカりであり、カツアゲ。つらいの当たり前。だからほっときゃいい、と。

今日は名言オンパレードだわ。「期待はタカり、カツアゲ」。ああ、なんてすばらしい。

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