子育てするにあたって心がけていること

自分の子どもを育てるのにどんなことを心がけてるか、と質問された。あまりきちんと意識したことがなかったけど、聞かれて思ったのは二つ。
第三者と関係を結ぶ力と、工夫することを楽しむ心。

親は、順序で行けば子どもより先にこの世からいなくなる。否応なしに子どもは赤の他人だらけの「第三者の海」に放り込まれる。そうでなくても、子どもが社会に出るとき、親はほとんど何もしてやれない。子ども自身の力で、第三者と関係を取り結ぶ力をもつ必要がある。

けれど、今の日本社会では、第三者と関係を結べるのは事実上、学校しかない。もし何らかの事情があって学校に不適応を起こしたとき、第三者と関係を結べる場を失ってしまう。すると、子どもは第三者と関係をどうやって結べばよいのかわからなくなってしまう。だから。

学校以外の第三者とつながるきっかけを、親がある程度用意する必要がある。私が不登校の子の面倒を見たり、相談事に乗るようにしているのは、子どもたちにとって包容力のある第三者になってもらいたい、と願っているから。子どもたちのお兄ちゃんお姉ちゃん、おじさんおばさんになってほしくて。

不登校の子をしばらく面倒見たときは、実は大したことをしていない。私がパソコン仕事をしている横で本を読んだり何か学習させたりしてるだけ。別に何も指導せず、一定の時間、一緒の空間で過ごしただけ。でも、それが大切だと考えていた。

親以外にも自分を受け入れてくれる第三者がいる、否定せず、一緒の時間、一緒の空間にいるのを嫌がらない第三者がいる、なんなら自分の存在を面白がってくれる人がいる。そう思えたとき、赤の他人だらけの「第三者の海」にも、自分を受け入れてくれる人がいる、と思えるようになる。

親にも相談できないこと、なんなら親の悪口を言える第三者を、子どもたちに用意できたら。そんな人たちが子どもたちにいてくれたら。子どもたちは、第三者の海の中を楽しんで泳いでいけるようになるだろう、と思う。

もう一つの力、工夫を楽しむ力。工夫を楽しむことは、学習意欲の源泉だと思う。いわゆるお勉強だけでなく、スポーツでも、人間関係でも、何でも。自分の知らない何かに出会ったとき、「これにどう対応しよう?」と立ち止まり、観察し、その結果、心に湧いてきた仮説に基づき、工夫を試してみる。

失敗に終わっても、それをよく観察し、また湧いてきた仮説を踏まえ、新たな工夫を試してみる。その繰り返しを楽しめば、どんなことでも楽しんで学んでいける。修得できるものはどんどん修得していく。それは、人様のお役に立つ力にもなり、自分がこの世界を楽しむ力にもなる。

第三者と関係を取り結ぶ力、工夫を楽しむ心。この二つを子どもに伝えられたら。私たち親がいなくなっても、たくましく生きていけるのではないか、という仮説を持っている。子どもたちが子どもでいる間は短い。できる範囲のことはするけど、あとは祈るのみ。

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