「驚く」経済

私は、人間って「驚かせたい」生き物なのかな、と感じている。生活の安定は大前提だけど、それさえ確保できるなら「驚かす」ことでかなり満足いくような気がしている。儲かりもしないのにツイッターやFacebook、Instagramをする人が多いのも、「いいね」が人を驚かした指標として実感できるからかも。

人が金持ちになりたい、高い社会的地位につきたい、というのも、自分の周囲の人を驚かせたい、という欲求が変化したもののように思う。そうした形でしか人を驚かす方法を知らない場合、金の亡者、出世欲のカタマリになってしまうこともあるのかもしれない。

人を驚かすには他の方法もある。人に何かをやって上げて、それを大変喜んでもらえたとき、「今度はもっとすごいプレゼントを持ってきてやろう」と、ワクワクして企む。サプライズのプレゼントで驚かすことができるとしてやったり。また何かしてあげて驚かしてやりたくなる。

ただし、こうしたプレゼント型「驚かす」の天敵がある。当然視すること、驚かなくなること。それを見た途端、プレゼントを見ても「ふーん、ありがとう」とそっけない態度を見せられると「もうやーめた」になる。驚かないことに気がついて、気持ちが冷めてしまう。

人の好意にすごく驚く人がいる。「うわー、いいんですか?こんな立派な野菜!」と嬉しそうに驚く人のところには、プレゼントがひっきりなしに来る。あまり喜んでくれるからもっとやったげよう、となって。
どうやら「驚く」は、気持ちのプレゼントでもあるらしい。

人間がこんなにも「驚かす」ことが好きな生き物だとしたら、「驚く」はとても大切なプレゼントなのではないか、と思う。これまで学生やスタッフの人たちの学びぶり、働きぶりに私が驚いていると、皆さん嬉々として学び、働いてくれる。どうやら、驚くというのは物事を楽しくする素晴らしいスパイス。

私自身も、驚いてくれる上司がいて、その人に新しい成果を報告するのが楽しみだった。また驚いてくれるだろうか?と。逆に驚かず、むしろ当然視して「もっとやれ」という上司には「誰がお前のために働くもんか」とそっぽ向いた。驚くって、働く意欲に直結しているように思う。

これは子どもも同じではないかと思う。「今日は宿題全部終えたよ!」と得意げに子どもが言うのに驚いてみせると、文字通りピョンピョン飛んでしてやったりと喜ぶ。宿題をやれ!と命令したら嫌がるけど、驚くと楽しく取り組めるらしい。

社会の仕組みを考えるとき、子どもを育てるとき、もっと「驚く」ことの効用に意識的になってもよいのではないか、と思う。
「驚き屋」になることで天下をとった人物としては、劉邦や劉備が有名。日本だと豊臣秀吉もそう。

劉邦や劉備、秀吉は、部下の活躍に驚き、喜んだ。部下はそれが嬉しくて、「オレはまだまだこんなもんじゃないと驚かしてやろう」と企むようになる。これらの人物は、部下たちがいきいきと躍動している。それは、「驚く」ことが人をどれだけ躍動させるかを知っていたからかもしれない。

私は、成果主義、能力主義の今の評価体制ではなく、年功序列に戻してもよいのでは、と思う。代わりに、「驚く」という要素をもっと巧みに取り入れれば、不満どころか楽しく社会で生きていける気がする。他人の百倍給料もらうよりも楽しい人生を送れるかもしれない。

病児保育の先駆けとなった駒崎さんは、それ以前に十分金儲けしていたけど、充実感はさほどではなかった様子。しかし病児保育の取り組みを始めて反響の大きさを実感し、今も勢力的に活動しておられる。反響とは、「驚かすことができた」という喜びの一形態。これはかなり楽しい。

生活を安定的に過ごせるだけの収入が得られたら、あとは「驚かす」ことを楽しみに生きた方が、社会は躍動するのではないか。イノベーションは「驚かす」の一形態。社会がもっと意識的に驚き、人間の「驚かす」という欲求を満たすことかできるようになれば、もっと躍動的な社会になる気がする。

収入は比較的公平で構わない。その代わり、「驚く」という報酬系で人の意欲にドライブをかける仕組みを意識的に取り入れたらどうなのだろう。それは同時に、楽しく幸せで、他者を思いやるゆとりのある社会に近づく気がしている。

世間から無視されたように感じ、社会の一部品として埋没するくらいなら、世間の耳目を奪うような事件を起こして驚かしてやる、という歪んだことが起きるのも、「驚き欠乏症」のためと解釈できる。人間は、誰かを驚かすことができなくなることが我慢できない生き物なのかもしれない。

知ったかぶりの澄まし顔して、「そんなんじゃ驚かないよ」というのは冷たい、ひどい行為なのかもしれない。大人は本能的に、幼児に対して「すごいねえ」と驚いてみせる。本当は、大人になっても「驚かす」という養分がほしくてたまらないかもしれないのに。

もっと私達は、「驚く」ことによって社会に養分を供給した方がよいのかもしれない。生活のためにお金は大切だが、それがある程度満たされたら、「驚く」という養分で人間はドライブかかる気がしている。「驚く経済」を目指してもよいのではないだろうか。

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