「自己の確立」考・・・みっともない自分を面白がる

昨晩のウェブ飲み会のテーマは「自分がない」とはどういうこと?というもの。たくさんの方々の意見が出て、とても刺激を受けた。
自分がない人は「私はどうしたらよいでしよう?」と他人にすぐ頼ろう、すがりつこうとする。どうするかも他人に決めてもらいたがる。

これはどうも、依存したいのではないか、と思う。相手の意見を丸呑みすることで、「私はあなたの言うことなら何でも聞く人間ですよ、だから私を認めて」という、ちょっと歪んだ形の承認欲求なのかもしれない。自分をすべて失うほどあなたに従属してるのだから私も認めて、という。

こういう人は、非常に暴力的な人と共依存になっているケースがある、という指摘があった。自分の怒りや不満を暴力でぶつけてくる人に、「この人は私にこんなにも向き合ってくれる、この人なら私から離れまい、この人には私しかいない」と感じ、その人に従属してしまう。互いに相手に依存する妙な関係。

こういうと、依存はよくないことだ、という気がしてくる。しかし昨今よく言われるように、自立とは依存先をたくさん持っていること。依存先があればあるほど自己は安定し、人にむやみに依存しやすくなる。
では、強烈に依存しようとする人と、自立するタイプの人の依存の仕方は何が違うのだろう?

自分がない人は、特定の人にすがりつこうとするのかもしれない。溺れた人が、救助に来た人に全力ですがりつこうとするように。こうなると、助けに来た人が沈められて溺れてしまう。このため、相手も依存先を求めてるタイプでないと耐えられなくなったりするのかもしれない。

自立してる人、とみなされやすい人は、特定の人に強く依存しようとせず、なるべく依存先を増やすことで、特定の人に負担をかけずに済ませるすべを知っているのかもしれない。特定の人にすがればその人が溺れてしまうことに気がつき、そんなことにならないようにする。相手を見ている。

自分のない人は、相手ばかり見つめているようで、相手が自分にかかりきりになる未来ばかりを期待しているのかもしれない。つまり相手も見えていなければ、自分も見えていない。自分の望む未来ばかり見つめて、現実を見ようとせず、工夫する余裕を失っている状態なのかもしれない。

佐々木正美「子どもへのまなざし」の指摘では、子どもに没入してしまう母親が出るのは、母親が孤独だからだ、という。新生児育児での、ほぼ睡眠がとれないときに助けてくれる人、苦しみを理解してくれる人がおらず、強烈な孤独を感じたとき、私にはこの子しかいない、と依存しやすくとなるという。

だから、決して母親が孤独に陥らないよう、夫やその周囲の人がしっかり考える必要がある、と指摘している。これはとても大切なことのように思う。たくさんの「目」があり、母親にたくさんの依存先がある場合、母親の精神状態は安定し、子育ても程よく距離感のとれた接し方ができるようになるという。

ところで、冒頭の「自己の確立」って、どうすればできるのだろう?結論から言うと、「こんなエエカゲンな生き物の確立なんかできますかいな」というのが私の感想。自分というのは実にやる気がなくて、イイカゲンで、フニャフニャ。確立なんかできやしない情けない生き物。

自分なんて、自分ではどうしようもない。テストのときに「この問題は勉強した」ことは覚えているのに、答えが出てこない。記憶さえままならない。思うようにならない。気力を出さねばならないときに気力がどうしても湧かない。気力さえとうしようもない。こんなに制御できない生き物もいない。

だから私は、「自己の確立」という言葉面から受け取る言葉とは裏腹に、自己なんか確立できるもんか、と考えている。こんなフニャフニャでイイカゲンな生き物、確立しようと思ったってどうしようもない。私は逆に、自己を確立するのを諦めてから楽になった。「こいつはとうしようもない」と。

山本周五郎「青べか物語」に、青べかと呼ばれる不恰好な船が登場する。変な船をつかまされたな、と周りが笑う中、主人公はなんとかこの船を操ろうと悪戦苦闘する。しかし右に進めと操作してもそうはならない。船とはこう動くものだろ、という動きを全然してくれない。ついに主人公は諦める。

「こいつは青べかなんだ、普通の船じゃないんだ」。ところが不思議なことに、そう思い切ってからは青べかがどう操作されるとどう動くのかがつかめるようになり、自由自在に操れるようになったという。
私は、自分というイイカゲンな生き物にも、こうして接した方がよいと考えている。

「確立した自己」というあり得ない姿を、未来を夢想して、その姿からズレている自分を罵り、叱咤激励しても、自分というのは実にイイカゲン。理想の自己とやらと比べたら、どうしたって自分はイイカゲンな生き物。不満ばかり出て、ちっとも自分が見えなくなる。

私は近頃、自分というこのイイカゲンな生物を面白がるようにしている。嫌なところ、みっともないところも含めて「そうか、お前はこういう生き物なのか」と感心しては驚く。批判も何もせず、それはそういう生き物なのだから仕方ない、と最初から諦めれば、この奇妙な生き物はなかなか興味深い。

気持ちとしては、文化人類学の研究者が、まだ誰も遭遇したことのない民族と初めて接触するような気分。たとえば人肉を食べる習慣をその人たちが持っていたとする。過去の自分の価値観で捉えてしまえば、とんでもない行為。しかし変に断罪せず、なぜそうするのかを面白がって掘り下げると。

実は、死んだひとの肉をウジ虫に食べさせることの方が申し訳ない、死んだ人の精神を引き継ぐ覚悟で食べるということで丁重に葬るのだ、という考えに気がつく。すると、人肉食が決して粗暴な理由とも限らないことに気がつく(この人肉食の事例は、モンテーニュ「随想録」にある)。

私は、人類がまだ出逢ったことのない民族に出会う文化人類学の研究者の気分で、地粉と接することを心がけている。既存の価値観で評価したり断罪したりせず、虚心坦懐に観察し、何か新たな発見があれば面白がる。そうするようになってから、私はずいぶん楽になった。

このイイカゲンで、不恰好な自分という生き物を、青べかと同じように考え、不恰好で言うことを聞かない生き物のあり方にまず従う。すると、青べかを操れるようになったように、自分の取り扱い方も見えてくる。

「あの人は自己を確立した人だ」と評される人は、実は自己を確立できたのではなく、自分というこの生き物の歪(いびつ)さを受け入れ、いびつなまま、自分をどうにか操る技術を蓄積してきた人なのかもしれない。だとしたら、「自己の確立」というのは誤解を与える、あまりよろしくない表現。

フニャフニャなんだから「確立」なんかできやしない。青べかのように不恰好でいびつで、言うことを聞かない存在、それが自分。
だから私は、自分のことを、興味深い特徴を持つ生き物として、全くの他人として取り扱う。だって、記憶や気力さえ自由にならないのだから。

自己の確立という、言葉面のカッコよさに引きづられ、自分のみっともなさを罵るのはムダなように思う。「そうか、今お前は、サボりたいのか」「そうか、今、逃げ出したいのか」。みっともないとされる反応でも興味深く観察し、面白がる。すると、逆に操り方が見えてくるもののように思う。

立派でかっこいい自己を確立することなんか諦めて、欠点も含めて「面白い生き物やなあ!」と興味深く観察する。こんなに真近に面白い生態を見せてくれる生き物と一体化させてくれた奇跡を面白がり、生きればよいのだと思う。自己の確立なんか忘れて、自分という生き物を面白がるとよいように思う。

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