仮面(ペルソナ)を変えること、意識しないこと

人間って不思議なところがあって。「昨日までの態度を豹変させたら、不思議に思われるかも」と心配し、今まで通りの顔(ペルソナ)をしてしまう。せっかく「こうした方がいいかな」と気がついたことがあっても、それを実行に移せない。これまでと違う自分を演じることが恥ずかしくて。

「自分の首尾一貫性」を貫こうとしてしまう。なぜか私たちは、首尾一貫した生き方をよしとする「呪い」がある。態度や考えを途中で変えるのは首尾一貫しておらず、変節漢だと批判されるのではないか、と。だから、同じペルソナ(仮面)をかぶり続ける。

いじられキャラの学生がいた。同級生からからかわれても「えへへ・・・」と笑うだけで、言い返さない。その場の空気を守ろうとしてしまう。私はその学生と一対一になったとき、「ほんとのとこ、どうなの?」と聞いてみた。するとやはり「イヤです」という。からかわれたくなどないという。

なぜ不快なのに、いじられキャラの仮面をかぶり続けてしまうのだろう?それは、恐いから。今までとは違う仮面を被ると、相手がどう反応するか読めない。しかしいじられキャラの仮面なら、不快かもしれないが予測がつく。いつものように、不快な気持ちを右から左に処理できる。そう、いつものように。

その学生には、旅に出てごらん、と言った。これまでの君を知らない人たちのところで、普段とは違う仮面を被ってごらん、と。意欲的な仮面、怜悧な仮面、朗らかな仮面、怒りっぽい仮面。いろんな仮面を被ってみて実験してごらん、と。君の普段被っている仮面は、仮面であって君ではない、と。

すると、いろんな反応を見せてくれるだろう。それが君の経験値になる。ほかの仮面を被った時に、相手がどんな反応するのか読めないから、いじられキャラ以外の仮面を被る勇気がなかった。しかし、他の仮面を被った時の相手の反応データが蓄積すれば、話は違ってくるよ、と。

本人も変身願望があったようで、自転車旅行に行き、初めて出会う人と話したりなど、彼にとっては新鮮な経験になったようだ。おとなしい性格であることは変わりないが、いつの間にかいじられキャラではなくなった。物静かだけれど、賢明な立ち居振る舞いの青年に。

「私はこういう性格です」と自分を規定してしまいがちだけれど、本当だろうか。それはたまたま、使い慣れた仮面を被り続けてきたから、そしてそれ以外の仮面を被ったことがないから、その仮面を自分の素顔だと思い込んでいないだろうか。その仮面は、使い慣れた「テク」の一つでしかないのでは。

山本周五郎の作品で、タイトルは忘れてしまったが、とある藩に来た浪人が、非常に賢い武家だと「勘違い」され、相談されるようになった話がある。その「仮面」を必死に守るため、話をよく聞き、深く考え、必死に考えた案をアドバイス。これがことごとく当たり、藩は危機を脱する。

浪人はその藩を出ていこうとする。この藩の人たちが自分に抱いているイメージに従うならば、何の報酬も受け取ろうとせずに静かに立ち去るだろう、と考え、浪人は泣く泣く「仮面」を守り続けた。すると追いかけてくる人たちが「あなたの高潔なお気持ちはわかります、しかしどうか藩に残ってください」

浪人は内心、「ああ、これで就職できる(禄が得られる)」と、ホッとする、というお話。
その浪人は賢明だったわけではない。けれど、その藩の人たちが固唾をのんでどんなアイディアを言うかと待ち構えているのを見ると、必死になって考えたアイディアを述べる「仮面」を演じ続けた、という格好。

「時代が人を作る」とよくいう。これはあるように思う。西郷隆盛は若い頃、かなり激情型の熱血青年だったらしい。その熱血ぶりを買って、主君である島津斉彬に抜擢された。その経緯を知る若い武士たちが、西郷をリーダーとして担ぎ上げていく。西郷は若者たちの期待に応えねばならなかった。

西郷は才気煥発な若者だったが、若者たちの才能とやる気を引き出すため、やがて自分の才気は隠し、とぼけ、泰然とゆとりある態度を示すようになった。そうした「仮面」が、多くの若者を束ねるのに必要であることを西郷は理解したからではないか、と思う。

日露戦争の大将だった大山巌も、若い頃は才気ばしった切れ者だったらしい。しかし人を束ねる立場になるにつれ、自分の才気は隠し、人の才気に驚き、受け入れ、それを伸ばすようになった。たくさんの人たちの才能を生かすにはその「仮面」の方がよいことを、経験から学んだのだろう。

若い人の歌には「本当の自分」というフレーズがよく出てくる。しかし、本当の自分というのは、なかなか見えるものではない。それはただ被り慣れた仮面でしかない可能性がある。惰性で生まれた仮面を、本当の自分だと思い込んでいる可能性がある。

私たちはマンガや、ドラマや、小説などで、いろんなキャラになった気持ちになる。一種、演技しているようなもの。そう、私たちは、様々なキャラの要素を持っている。心優しいキャラに共感したり、大胆なキャラに共感したり。共感できたキャラは、自分の中にもその要素があるということ。

しかし、その要素に合った「仮面」をまだ被ったことがないだけ。これまでどんな仮面を被ってきたかなんて忘れて、いろんな仮面を被ってみたらよい。すると、新たな自分を発見して、ビックリするだろう。

ところで私は。自分の「仮面」を一切気にしないことにしている。自分がどう見えているかを考えない。それはどうでもよい。その代わり、目の前の人、子どもをよく観察し、今、その場で最適と思われる対応をとるように心がけている。それがたまたま、どんな仮面に見えるかは知らない。

現代人は、「自己」を意識しすぎだと思う。「客観的な眼」とやらで自分を観察し、自分はこういう人間である、と規定する。鏡でもない限り自分は見えないのに。自分は常に、見えている景色より「手前」にあって、自分の顔の部品もろくすっぽ見えないのに。

私たちは、他人の反応を見て「あ、今自分のことをこう思っているな」と忖度し、自分はこう見えているんだな、と解釈する。それが自分の被った「仮面」だと認識する。みんなに合わせて陽気なキャラを演じるのも、友人がどう反応するのかを見定めながら。実のところ、自分は見えていない。

自分は見えないのに、自分の「仮面」を変えようとする。変えることで、相手の反応を変えようとする。その仮面が相手にどう見えているかなんてわからないのに。仮面を操作しようとする。しかし、意識すればするほどぎこちなくなり、その仮面は硬直した表情になる。

仮面操作にあまりに意識的になり過ぎると、かえって能面のような仮面になることに気がついた私は、人からどう見えているかを考えないことにした。それを考えなくなった分の余力を、相手の観察にすべて投じるようにした。すると、相手が何を求めているか、見当をつけやすくなった。

相手が心の奥底で何を求めているのかが、観察から感じられるようになるので、表面上を合わせる必要がなくなり、深く突っ込むこともできるようになった。自分がどう見えているのかを忘れ、相手を観察するからこそ、それができるのかも。

あまりに優秀で、かつ美人、という人がいた。飲み会になっているのに、男性たちはみんな自分は釣り合わないと思うのか、その人に近づかない。話さない。その結果、その女性はぽつーんと一人。女性はそうした目によくあうのか、慣れている様子で、鉄面皮を保っていた。

私ももちろん釣り合わないのだけれど、寂しいと思っているな、と感じ、声をかけた。「よくこういう目に合っているんじゃない?」すると「そーなんですよ!」。自分はもっと話したいのに、遠ざけられてしまうという話を聞かされ、私は笑った。その女性もホッとした様子。以後、みんなの輪に加わった。

もし私が、自分がどう見えているかなんて気にしていたら、声はかけられない。自分がどう見えるかなんてのは忘れて、相手の表面上のことも忘れて、内心、どう感じ、どう考えているかを観察から仮説を立てて、行動しただけ。「仮面」を忘れるから、必要な行動をとることができる。

自分がどう見えるかなんて忘れる。その時必要な言動は何か、相手をよく観察し、状況をよく観察し、仮説を立て、最も適切と思われる手を打ってみる。ひたすら、それの繰り返し。すると、自分の仮面なんて気にならなくなる。必要と思われることをするだけ。

ただし、必要と分かっていても自分には無理なこと、逆に他人には無理でも自分なら得意なことがあるのが分かってくる。これこそ、「本当の自分」なのかもしれない。他人からどう見えるかなんてことを忘れるから、試行錯誤の中で自分の姿がおぼろげに見えてくるのかもしれない。

ただし、その自分は千変万化する。何しろ、必要と思えば大胆になったり、細心になったり、優しくなったり、厳しくなったりするのだから。常に観察し、仮説を立て、試行錯誤するので、経験値が上がると自分が変わる。昨日できなかったことが今日できれば、また自分が変わる。結果、自分がよくわからん。

「今ならできそう」「今の自分にはちょっと無理」そう無意識が教えてくれる。そのとき、おぼろげに自分が見えるけれど、別の瞬間にはまた違っているかもしれない。そんなに千変万化する自分なら、忘れちゃったほうがよい。ひたすら観察し、仮説を立て、試行錯誤する。自分を忘れて。

西郷隆盛は「敬天愛人」を座右の銘にしたそうだけれど、自分がどう見えるかなんて忘れていたから出てきた言葉のような気がする。人を愛するがごとくよく観察し、自分の行いがどういう結果になるかは予測がつかないから天に任せる。そういう意味なのかな、と思う。

「自己」をあまり意識せず、自分がどう見えているかなんて構わず、相手を、状況をよく観察する。その方が物事はうまく進むことが多いような気がしている。

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