「正義」を盾にとった怒りの不当性

大人になったら、問題点を指摘することと、そこに感情をのせて構わないと勘違いすることを区別する必要があると思います。現在の日本人は「怒っていい」理由探しをしがちで、これなら怒ってよい、というのに甘えがち。私はそれ、あまりよくないと思っています。

以前、京都に出張に行ったとき、大雨で電車が出なくなっていました。とあるオッサンがホームにいた駅員を捕まえて「約束に遅れるやないか!どないしてくれるねん!」と怒鳴り散らしていました。その場にいた乗車予定のお客さんを代弁する、正義を行使しているつもりだったのでしよう。

しかし私が見るところ、その駅員は他の駅員に指示を与え、少しでも早く復旧させようと努力しているリーダーでした。そんな人を捕まえて怒鳴り散らしたら、さらにホームの混乱に拍車をかけ、電車が遅れかねません。私はオッサンに割って入り、駅員に「ここは私に任せて仕事して下さい」と言いました。

オッサンは「なんやお前は!」と食ってかかってきました。「私もこの電車に乗りますねん。ほら、見なはれ、あの駅員、このホーム全体に指示出す立場の人や。そんな人に食ってかかったら余計電車が遅れる。迷惑や」と言ったらオッサン黙って、どこかに行ってしまいました。

その男性は、おそらく「怒っていい出来事」を見つけては怒鳴り散らす人やなんだろうな、と思いました。怒っていい理由探しをしてる。電車の遅れは、乗客全員の不満を代弁する正義と考え、「これならいくらでも怒りをぶつけてよい」と考えたのでしょう。けれど、そんなことしたら事態はむしろ悪化。

「正義」を盾にとって憂さ晴らしするのは、今の日本では大変流行しており、それならやって構わない、と自分を許している面があります。私は違うと思います。正義を憂さ晴らしに使っているだけのことで、真の理由は憂さ晴らしにあるように感じるからです。

問題のありかを明らかにするのに、感情を乗せる必要はありません。また、相手への敬意を欠いて良い理由にもなりません。今の日本人は、その点を勘違いしている人が多いように感じます。私は少しずつでも、そうした行為が格好悪いと感じる感性を、私たちの手に取り戻していきたいな、と考えています。

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