統計データと現場

阪神大震災が起きてしばらく、NHKの深夜放送では「今日も740円(正確な数字は忘れたが、ともかく700円以上)のお弁当が配布された」というテロップが流されていた。この金額を見れば、神戸市の被災者はそこそこいいお弁当を食べているなあ、と思えてしまう。しかし実態は違っていた。

コンビニのおにぎり2個に小さなソーセージ1個、2本ほどのスパゲッティ、菓子パン一つ、牛乳パック1個。どう考えても400円するかしないかのシロモノ。これが1日分の配給食料だった。
2月初頭、救援物資の食料が枯渇し、私たちが調査に入った時点でも、元気村のマスコミは気づいていなかった。

「え?毎日これだけ?金額を聞いていたから、もっといいお弁当を食べていると思っていました」と、テレビ局の職員。現場にいたのに気がついていなかった。テレビが垂れ流す数字の方を信じて、目の前で何が起きているのかをつかめていなかった。これは実は行政も同じだった。

考えてみれば、400円程度のものを740円だかで配るのは、業者としてはやむを得なかったと思う。急遽、被災者全員に配るだけのインフラを整えるコスト、避難所一つ一つに配達するコストを考えると、仕方がないとは思う。しかし、おにぎり2個だけの内実を伝えず、金額だけ発表したことはズルさを感じる。

さて、「数字にだまされる」ことは、ベトナム戦争でも起きている。マクナマラという人物は、戦場から送られてくる様々な統計データを駆使し、戦闘は有利に展開している、と訴え続けた。そしてその印象を与えることに成功していた。しかし現場の記者たちは「おかしい」と感じていた。

うまく行ってるにしては、現場がひどすぎた。現場の兵士たちは疲れ果て、混乱を極めていた。しかしそうした断片的な情報が伝えられてもマクナマラは動じなかった。「局所的にはそういうところもあるだろう、しかし全体としてはうまくいってる、それは統計データが物語っている」と。

しかし実は、統計データの方がまやかしだった。当時のアメリカ首脳が、戦闘は有利に展開していると信じたがっていることを察知した現場の将校たちは、都合のよい数字を報告し続けた。ウソではないが、その数字だけ見たら有利に展開してることを支持するデータだと勘違いしてしまいそうなデータばかり。

しかし戦場の現場からは、マクナマラの主張する統計データに反する報道がたくさんなされるようになった。ついには、マクナマラの駆使した統計データは、現場を映していないまやかしのものであることを認めざるを得なくなっていった。

阪神大震災での経験は、「ベスト&ブライテスト」で描かれていたようなマクナマラの過ちを実感することとなった。統計データを信じる人は、それに反する話を「個別的・局所的な問題」として考え、無視する傾向がある。実際私も「被災者って毎日ステーキとか食べてるんでしょ」と何人からも言われた。

しかし私が入っていた避難所では貧弱な弁当しか配給されていなかった。また周辺の小学校や高校のボランティアに聞いてみても同様だった。かなり大きな避難所でその実態では、抜き取り調査としては十分な信憑性があるデータと思われた。だから、公表されていたデータを鵜呑みにせずに済んだのかも。

現場を軽視する人は統計データしか見ない。統計データに反する事実を無視、あるいは「個別的・局所的」と、軽視しようとする。しかし「弁当740円」のように、ウソではないかもしれないが数字にだまされることは多々ある。それを克服するには、現場をよく見て、抜き取り的に聞き取りする必要がある。

統計データを鵜呑みにするのもまずい。現場の1体験だけをもって全体を語るのもまずい。大切なことは、個別的観察と全体的省察の交互の思考。個別的観察が全体の統計データと矛盾するなら、無視してはいけない。個別的観察を増やして、統計データとなぜズレるのかを考える。

また、統計データの「数字」が、どのようにしてはじき出されたのかも考えてみる必要がある。弁当の740円は、配達料も込みだったと思えば理解できるが、金額だけ聞けば立派なお弁当のように思える。NHKにその情報を伝えた人物は、その勘違いが起きるだろうことを狙って伝えていた可能性がある。

ベトナム戦争でマクナマラのもとに集まったデータも、ウソではないが印象だけデカくなるようなものを報告していた可能性がある。統計データはこうしたことが起きやすい。だから、その数字が本当は何を表しているのか?については、慎重に考える必要がある。

統計データの真の意味を汲み取り、現場の実情を捉え損なわないようにする。こうしたセンスを磨いておくことはとても大切なことのように思う。

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