文章を書くには「伝える」より「伝わる」ように
前に「篠原さんが文章上手いのは本を出してるから」という指摘があって私は即座に「違う違う」とクビを振った。本を出す前に文章上手くなっておく必要があるだろうし、何より、「文章上手くなってから文章書く」っておかしい。文章はヘタから出発するに決まってる。ヘタでも書いてるうちにマシになる。
私の文章がもともと上手くない証拠に、これまで何度もツイッターで炎上してる。その都度、「ああ、こういう書き方、考え方は人を苛立たせるのだな、改めよう」と修正かけてきた。文章は私の場合、恥を何度もかくことでマシになってきたのかな、と思う。
文章を書く際に気をつけてることとしては「伝えよう」としないこと。そして、どうしたら「伝わる」かを考えるようにしている。
上手い文章を書こうとしている人は「伝えよう」という前のめりな姿勢があるように思う。こうした前のめり姿勢は読者からすると押しつけがましさを感じることがある。
私は稀代の物わかりの悪い人間で、少しこみいった話をされたり、ちょっとわかりにくい表現をされただけで混乱する。私は文章を書く際、この「稀代の物わかりの悪さ」を利用している。自分が同じことを言われたらわかるかな?と考えたとき「わかりにくい!」と思ったら書き直す。
物わかりの悪い私でもわかるように何度も書き直しているうちに、文章がマシになるらしい。文章をアホほど書くようになった今はさすがに、何度も修正しなくても「篠原にわかるようにするにはこう書いたほうがいいな」と見当つけながら書けるようになってきたけど。
文章がイマイチな人はもしかしたら「察しのよい人」なのかもしれない。多少の表現の混乱があっても何を伝えたいのか理解できてしまう人は「これでいいや、わかるし」と、修正かけないのかも。物わかりのよい人は文章に磨きをかけることが難しいのかもしれない。
物の表面をツルツルに磨き上げるためには、ザラザラの表面のサンドペーパーが必要。それと同じで、私が多少なりともわかりやすい文章を書くことができているとすれば、それは「物わかりの悪さ」というザラザラ面があるおかげなのかもしれない。欠点は長所の裏返し。
ところで、「伝えよう」とする人は、あれもこれも盛り込みすぎな気がする。気の利いたこの言葉も加えよう、含蓄深くなるようあれも足しておこう、と、文章が重装備になってしまうのかも。しかしそうしたゴテゴテした文章は、何を言いたいのかさっぱりわからない。これも伝えたい思いが強すぎるからか。
私は「伝わる」を最優先にするので、「最低限これだけは伝えたい」というもの以外削ぎ落とす。伝わるといいなあ、という核心部分だけにする。
すると不思議なもので、その方が含蓄深いと思う人が多いらしい。シンプルだからこそ余白が大きく、自身の体験が呼び覚まされるかららしい。
文章を書くなら、上手いこと書こうとか、あれもこれも伝えたいなんて欲をかかないほうがよいと思う。物わかりの悪い私は、あんまりたくさんのことを書かれていても読み取れない自信がある。つかみ取れるのは一つだけ。それは他人も一緒だろうと思うから、「これさえ伝われば」に絞り込む。
そうして、シンプルに伝わるように(「伝える」ではなく)文章を書くと、読み手側で肉付けしてくれる。読者が文章に膨らみを与えてくれる。文章がシンプルで余白が大きいからこそ起きる現象のように思う。
文章を書く際には、「我を捨てる」ことが大切なように思う。私の場合、読み手としての「物わかりの悪い篠原」を想定して書く。その際、自分の伝えたいことを書こうとするのではなく、読み手の心の中にあるものと共鳴する言葉を探ろうとする。相手の中にないものは伝わらないから。
みな経験があることだと思うけど、見たことも聞いたこともない話をされたら、キョトンとするしかなくなる。自分の中に受けとめるものがないなら、共鳴するものがないなら、話を聞いても響かない。仮にわかりやすく説明されても興味が湧かないなら「ふーん・・・」て終わる。
「伝わる」ようにするには、相手の中に「これならありそう」というものを探し、それに共鳴しそうな言葉を紡ぐことが大切。「あ!それ知ってる!」となると、人間は食いつきがよくなる。相手の中にある言葉、思いを探りながら言葉をつむぐのが大切。それが「伝わる」なのだと思う。
文章を書きたい、本を書きたいと思う人は、自分の思いを伝えたい、ということに前のめり過ぎて、読者に「伝わる」ようにすることを忘れているのかもしれない。それだと、なかなか人に読んでもらえる文章になりにくいのかもしれない。
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