「ほめる」と「驚く」の違い

「ほめる」の恐いところ。承認欲求は誰にでもあるのだけど、他人の期待に沿う生き方を続けた場合、他人の身勝手で気まぐれな期待に振り回され、一体何のためにここまで頑張ってきたのか、と絶望してしまう時が来る。承認欲求は本人の欲求でもあるけど、気まぐれな他人の期待に主導権があるのがまずい。
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私が「驚く」を推奨してるのはそのため。「驚く」は「期待」と違って、子どもがどんな行動をとるのか、コントロールしようとしないときにできる反応。親がまさか、と思っている工夫や努力、苦労を見たとき、驚くことができる。子どもはいつ、どんなことで親を驚かせるか、裁量権を持ってる。

これに対して、「期待」には裁量権が子どもにない。期待通り振る舞うか、やめるか、二者択一。期待に沿わなければ激しく失望され、期待に沿えばほめられる。二者択一。選択肢に幅が全くない。
「驚く」なら、子どもがとんなことで、いつの時期に親を驚かせるか、非常に幅広い選択肢があるのに。

「ほめる」は、親が子どもの振る舞いをコントロールしようとする願望が秘められている。「驚く」は子どもの行動はコントロールできない、という諦念と、健やかな成長を願う「祈り」に基づく。「ほめる」と「驚く」は似ているように思われるが、かなり違う。

大仰に驚いてみせる必要はない。知人が言語化したように「差分」に気づく、という程度で結構。昨日できなかったことが今日できた、その「差分」に気づくだけで子どもは満足。自分の成長に気づいてくれた、というだけで十分。「ねえ、見て見て」で大人が見てくれたら満足するように。

親のあり方として理想的なのは「大地の子」の主人公の義父だと思う。主人公は真面目に学業で成果を出し、出世もしたが、突然疑いをかけられ、牢獄に入れられ、拷問を受けた。義父はなんとしても救い出そうと必死に各方面に働きかける。

義父のありようは、主人公の健康と笑顔、それだけを祈っていただけだと思う。主人公が何を選ぼうと、どんな選択肢に進もうと、義父は一切何も言わず、応援した。そして主人公の成長に、変化に驚きはするが、こうなってほしい、という「期待」は一切しなかった。

小説だから、作り話といえば作り話。けれど、史実の方が脚色されることが多いことを考えると、小説の方が真に迫ることがある。もしこの義父のような親がいたら、そりゃ努力する人間になるだろう、と思わせられる。

「ほめる」と「驚く」は似ているようで、かなり違う。親は自分の期待通りに子どもを育てようとせず、子どもに裁量権を渡したまま、差分に気がついては、驚いていればよいのだと思う。

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