「自立」はこの世にない現象

よく「自立を」なんて言われるけど。「他立」がいいんじゃないかな、と思う。
たぶん「自立」を求めるのは、依存ばかりして、他人の力を借りることばかり考えて、自分の足で歩こうとせず、他人のせいにばかりする人間への腹いせみたいな面もあるのだろう。けれど、「自立」は「孤立」でもある。

「あなたのおかげで今の私は支えられている」という姿勢はとても大切。そして「私を支えてくれたから、今度は私が支える番」というのも大切。
良好な人間関係は、自分でできることはしっかりやりながら、人の援(たす)けによって支えられていることに感謝することで培われるように思う。

そして、人の援けをアテにしないこと。いつもならやってくれていることでも、それを当然視せず、「今日は体調悪いのかな、だったらいつもやってくれて助かってるし、今日くらい僕がやらせてもらおう」と、恩返しのつもりで自分が担当する気構えでいること。

やってもらってゴメンね、と言われても「何を言ってるの、いつもやってくれてるのは君じゃないか、いつもありがとう」と、逆にすまないね、という気持ちと感謝の気持ちを伝える。そんな人間関係を作れたら、それは「他立」が互いに組み合わさった「支え合い」になるのだと思う。

俵万智さんは東京に住んでいる頃、「人様に迷惑をかけないように」と心がけて子育てしていたという。
南の島に移住すると、ご近所の方々が何くれとなく子どもの世話を焼いてくれ、釣りにも連れて行ってくれて。「そんなご迷惑な」と言うと、不思議な顔をされたという。
それから俵さんは。

「コイツなら迷惑をかけられても構わないや」と思われるような子に育てよう、と思ったという。
「迷惑をかけられても構わないや」という関係。いいなあ、と思う。迷惑をかけられてもいいと思ってもらえるということは、相手が申し訳ないと思いそうなことを「いいよいいよ~」と笑顔で引き受けるから。

「いつもあなたにはお世話になってるから」と感謝し合う。相手のしてくれたことを当たり前と思わない。常に新鮮に「いつもこんなに良くしてくれるなんて、なんと優しい。なんとありがたい」と驚きと感謝を抱く。そうした相互関係なら、相手のためになることをするのは楽しみでこそあれ、苦痛ではない。

しかし、自立していると思い上がっている人はしばしば、他人のしてくれたことを当然視する。そのくらい伴侶なら当たり前だ。親なら当たり前だ。我が子なら当たり前だ。友人なら当たり前だ。恋人なら当たり前だ。自分は自立しているがお前は甘えている。お前はオレから奪ってばかりいる。

こんな「自立」人間は付き合いづらい。「そうですね、ご立派ですね、私の助けなんかいらないですよね、余計なことをしましたね、ご迷惑をおかけしました、ではサイナラ」。
相手のしてくれるのを当たり前と見なし、もっと寄越せと要求していることに無自覚な「自立」人。こうした人は「孤立」する。

私達は、支えられて生きている。ジュースの新製品がヒットすれば、開発者はチヤホヤされるかもしれない。しかし品質管理の人たちは、ハエや髪の毛などの異物が入らないように日夜注意し、それを達成していても、滅多にほめられることはない。当然視されがち。でも、その人たちの頑張りがなかったら。

異物がよく混じるようなら、どれだけ魅力的なジュースでも売れなくなる。品質管理は縁の下の力持ち。新商品開発の人たちは、常に品質管理の人たちに日々支えられていることに驚嘆し、感謝することが大切なように思う。

鉄道の新車両を開発した人や車掌はカッコいいかもしれない。しかし日々、線路に歪みはないか、石がレールに乗ってないかを見回る保線の仕事がしっかりしていなければ、私達は安心して鉄道に乗ることはできない。鉄道は、夜中に線路を見回る保線の人たちに助けられている。利用者も。

それが日々達成されることの驚き、感謝があってよいように思う。
私達は多くの人たちに支えられて生きている。「他立」。私も誰かを支え、誰かも私を支えてくれる。そうした社会だから生きていける。
「オレの方が稼いでる」という「自立」人は、いつか孤立することになるように思う。

私が思うに、「自立」はこの世に存在し得ない現象。誰もが支えられている。それを当然視しがちだから「自立」と言うのだろうけど、当然視した途端に支えてくれていた人たちが離れていく。支えてくれることの奇跡に、驚きと感謝を。

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