「失言」考・・・デジタルタトゥーの何がまずいのか

「失言」考。
以前からのツイッターのフォロワーの方はよくご存知だと思うけど、私は失言・配慮不足・認識の甘さなどでしょっちゅう炎上している。炎上するにはそれなりの理由があり、YouMeさんや知人からも「こうした方がよかったね」とアドバイスを受けて、「アップデート」することを心がけている。

私は当然ながら完璧な人間ではない。偏りがあり、欠点があり、思慮の足りない、ごくありふれた人間。失敗を何度も繰り返す。ただ、失敗したときは「せっかく失敗したのだから」学べることを学び取りたいと考えている。私は思い切ってやってみて、失敗して、叱られて育ってきた人間だから。

私の発言で誰かを傷つけ、不愉快な思いをさせてしまったときには、なるべく謝罪し、その後、言動を修正する「アップデート」を心がけている。私の思考にバグが見つかったら、それを修正するパッチをあてる。パソコンのアップデートと同じように。

しかし、ツイートは基本、削除しないようにしている。せっかく多くの方がお叱り頂いているのだから、記録として残していた方が「ああ、こういう考え方は多くの人から受け入れられるものではないのだな」ということを多くの人が感じ取れる証拠とした方がよい。また、私自身の戒めとするためにも。

他方、多くはないのだが、何年も前の発言をほじくり出していつまでも同じ烙印(スティグマ)を押そうとする人がいる。私はこうした言動を好まない。こうした人は「アップデート」の価値を認めず、出来損ないの烙印を決して外そうとしない。こうした言動がなぜまずいのかというと。

せっかく反省し、次から言動を改めようとしてる人にヤケを起こさせ、「どれだけ謝っても、どれだけ改めても烙印を外さないならもういいや」と開き直らせ、「アップデート」をやめて「ダウングレード」させてしまう。これでは失敗を活かすどころか、社会を停滞させることになる。

烙印を押す人は、どれだけ相手が謝罪しても、言動を改めても、「あの人は過去にこんなことを言った人、やらかした人」という烙印を外そうとしない。こうした姿勢は、社会から「アップデート」の価値を否定することになる。この世から相手が消えるまで許さないという不寛容さ。

これでは、あさま山荘事件を起こした連中と似てきてしまう。彼らはリーダーと異なる意見の人間に烙印を押し、謝罪するだけでは許さず、殺した。殺し続けることになった。一度失敗した人間を許さず、この世に生き続ける限りその烙印を押し続けることは、あさま山荘事件の連中に似てきてしまう。

私は滅多なことではブロックしないことにしているけれど、私が「これは私が誤っていた、申し訳ないことをした」と悔い、謝罪もし、以後の言動を改めようと心に決めているのに対し、いつまでも同じ烙印を押し続ける人はブロックすることにしている。それはなぜかというと。

「アップデート」する意欲を殺がれるから。アップデートしようとしてるのに「アップデートしたところでコイツは過去にね」というけなされ方を続けられると、「ええどうせ私はひどい人間だよ、それがどうした?」という開き直りの気持ちが頭をもたげ、「ダウングレード」してしまうから。

私は自分が「アップデート」するのに嫌気がささないように気をつけている。ご迷惑をかけた方には申し訳ないが、「ダウングレード」し、開き直り、同じ言動を繰り返すほうがよほど有害だと考えるから。

他方、私が他の人に烙印を押さないように気をつけている。もちろん、「この人は当面話ができない」と諦めることはある。でも、人間がどこかで変わる可能性を、信じることにしている。それがいつかは分からない。死ぬまでそのときは来ないかもしれない。しかし「アップデート」する可能性は信じてる。

社会をアップデートするにはとうしたらよいか?そのためには、「烙印」というのはどうも「ダウングレード」の方向に社会を動かすからよくないように思う。アップデートする努力を否定するのは、よくないように思う。そんな考え方が社会に広がることを願っている。

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