ちょっとした「追加」が関係性を激変させる

関係性から考えるものの見方(社会構成主義)第7弾。ちょっとしたことが関係性をガラリと変えるケースについて。
司馬遼太郎「竜馬がゆく」によると、薩長同盟のために薩摩藩長州藩の面々が顔を揃えていたのに、どちらも同盟のことを口に出すことがなく、ついに桂小五郎は「帰る」とまで言いだした。

2藩が同盟しなければ幕府を倒す力にはならない。坂本龍馬は奔走して、なんとか2藩が顔を合わせる場を設けた。ところがどちらも同盟のことを言い出さない。立場的に有利な薩摩藩は「自分たちから言い出すことではない、長州が頼めば聞かんでもない」という態度。
他方、長州藩は。

前に蛤御門の変で煮え湯を飲まされた屈辱があり、自分たちから薩摩に頭を下げることはプライドが許さない。両者とも同盟のことを言い出さず、膠着状態。
長州藩の中から「芋侍が」と吐き捨てる言葉が。静かだったので万座に響き渡った。ああ、これでもう終わった、薩摩藩は怒って退席するだろう。

そこで竜馬が大笑いして転げ回った。「ははは!芋侍!うまいこと言った!」
第三者である竜馬が大笑いしてることに、薩摩の人間が大真面目に怒ったらなんだか大人気ない。薩摩藩から怒る気が失せた。そして西郷がニッコリ、「そう、芋ばかり食ってますからな」と引き受けた。

雰囲気がすっかり柔らかくなり、同盟の話がスムーズに進んだという。竜馬がとっさに笑い転げていなかったら、果たして同盟は成立していたか分からない。
以上の経緯は、同じ海援隊の仲間だった陸奥宗光の回想によるものらしい。一人の証言でしかないことを理由に、竜馬は何もしてないという説も。

しかし竜馬が死んだとき、西郷が怒って犯人を突き止めようとした話や、明治維新後まもなく、維新で活躍した人物としての番付表で竜馬がかなり上位を占め、多くの人に印象づけられていたこと、勝海舟も「氷川清話」などで思い出を語っていることを考えると、竜馬の存在はやはり大きかったように思う。

史実かどうかはともかくとして、司馬遼太郎が描いてみせたこの情景はさもありなん、という気がする。薩摩は長州に頭を下げる義理はない、長州は薩摩に頭を下げるのは耐えられない、という緊張関係はあっただろう。そのような状況で竜馬のバカ笑いは、確かに効果があり、「関係性」を変えたように思う。

キリストは人々に罪を許せと唱えていた。そんな中、律法学者たちが姦淫の罪を犯した女性を連れてきた。「モーセの律法では石を投げて殺せ、とされている。あなたはどうする?」と問いかけた。
神を信じるならば石を投げるべき。しかしそれでは罪を許せと唱えてきたことと矛盾する。進退窮まる所。

「罪がないと思う人が石を投げなさい」と返答。すると、誰もが多少は罪を犯した自覚があるため、とても石を投げる気が起きなくなり、スゴスゴと退散したという話。
こちらが進退窮まる関係性に持ち込まれようとしたところ、相手の論理に乗った上で、その論理に1つ追加しただけで相手に跳ね返る構造。

キリストは、このようにとっさに関係性を逆転させるのが非常に巧みな人だったらしい。
「皇帝のものは皇帝に」というエピソードも、キリストを陥れようとして逆にやり込められた話。関係性というのは、相手の論理に乗った上でほんの少しの追加で、相手に逆襲する論理に転換させることができる。

こうしたことがマネできないか、普段からあれこれ考えていると、だんだんとうまくなってくるように思う。

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