「ほめる」は期待を満たしたとき、「驚く」は期待を良い意味で裏切ったとき

今回、このツイート群がずいぶんバズったのだけど、「驚く」を「ほめる」に変換して読む人が多かった。しばらく前、「驚く」と「ほめる」の違いについてかなり連続して書いて、「驚く」が浸透してきたかな、と思ったらそうでもなかったらしい。「ほめる」はもはや呪いの一種かも。
https://note.com/shinshinohara/n/ndba5073538e3

ほめることはいいことだ、いいに決まってる、良い効果はあるはずだ、という思い込みがかなり深く浸透している様子。「ほめる」だけでなく、「認める」に翻訳する人も多かった。心理学者のアドラーが、ほめるな!と言ってるので、その代わりに出てきている言葉らしい。

私には「ほめる」も「認める」もよくわからない言葉。曖昧模糊すぎて。人によってイメージまちまち。意味が分散しすぎてる多義語。私はこういう曖昧な言葉、苦手。何を言ってるのかさっぱりわからない。明確にどうすればよいのかがわからないと、物わかりの悪い私には意味をなさない言葉になる。

ほめられたらみんな嬉しい。やる気がそれで出た、という思い出を皆さん1つや2つはあるだろう。それで「ほめる」は、相手を思い通りの形に持って行くのに都合のよい方法のように捉えられやすいようだ。
しかし多くの指摘にあるように、「ほめられるためにやる」というのはやや外発的。

あと、ほめる場合はしばしば、相手を観察できていない。外側の結果ばかりほめることになりやすい。100点取ってすごいね!とか、大きな契約取ってすごいね!とか。外に現れたものをほめやすい。

「結果ではなくプロセスをほめろ」ともよく言われるけど、プロセスをほめるにも、外側に現れたものだけをほめることになりがち。長時間頑張ってるとか、たくさんの案件処理してるとか。内面に起きてることに「ほめる」はアプローチしにくい。「ほめる」は何らかの価値規準に基づく行為だからだろうか。

「認める」は、もっとよくわからない。相手を肯定的に捉えるのは、当然のことと思うので、わざわざ口にしなくてもいいか、という気もする。相手を肯定的に認めても、それはお友達表明にはなっても、内発的な動機を生むという積極的なアプローチとは言い難い。

「ほめる」は、こちらが用意してる価値規準に合致したらほめるということになりがちなので、どうも相手の行動をコントロールしようという意思が相手に伝わりやすい。
「認める」は、コントロールしないよ宣言の意味があるのだろうけど、逆にいえばあまりに不干渉過ぎる気もする。

私は常々、赤ちゃんに対する母親の接し方は理想的だと考えている。
赤ちゃんは言葉が通じない。言葉を教えようにも言葉が通じないから教えようがない。ハイハイの方法を教えたくてもそもそも体の使い方さえわからない赤ちゃんに教えようがない。親はただ、祈るしかない。

ある日、首の座ってなかったのが少し座るようになった。寝返り打てなかったのが、いま打てた。後ろに進んだけどハイハイに成功した。おすわりできた!笑った!そんな日々の変化、昨日と違う「差分」に気がついては驚き、面白がる。多くの母親は、そう接している。

初めて立ったら「立った!いま立ったよね?」と驚き、言葉を話したら「今の、言葉だったよね?言ったよね?」と驚き、喜ぶ。赤ちゃんは言葉はわからないけれど、お母さん、お父さんが驚き、面白がる様子をよく見ているように思う。

幼児が親に「ねえ、見て見て」とひっきりなしに声をかけるのは、昨日までできなかったことに親に気づいてもらい、驚かせてやろう、面白がらせてやろう、と企んでいるからだろう。子どもは驚かすのが大好き。もっと驚かせてやろうとさらなる成長を企む。

これは多分、死ぬまで続く欲求のように思う。ユマニチュードという介護技術がある。暴力的で手のつけられない寝たきり老人に、ユマニチュードの指導者が近寄り、そっと手を添え、目を見つめ、アイコンタクト。手が動くと、お!と嬉しそうな驚きの表情を示すと、老人はますます驚かせようと動いた。

老人は笑顔をみせるようになり、最後にその指導者が帰ろうとするときには立ち上がり(寝たきりだったのに!)、さようならを言おうとした。
ユマニチュードの骨子は、「驚く」ではないかと思う。微細な変化、差分に気づき、驚いて見せると、もっと驚かせようと能動的な動きが出てくる。

「驚く」場合、相手がどう動くかはコントロールできない。だって、驚くというのは予想外のことが起きたときにできる反応なのだから。相手に期待しない心理状態になって初めてできる反応。だから相手をコントロールしようがない。コントロールすることを放棄した姿勢でないと驚けない。

しかし、驚かす側としては、相手を気持ちよく驚かせたい。嫌な驚かし方をしたら相手も嫌がり、離れて行くことに気がつく。だから、結果的に相手にとって嬉しい驚きを提供しようとしてくれる。
けれどこれは、驚く敷居を低くしたときに起きる現象。「え?こんなことで驚くの?じゃあこれならもっと?」

働かないことで有名な人がいた。その人の仕事なのに全然動かない、と不評だった。私がその人と仕事をする際、全部自分でやることに腹を決め、一切期待しないことにした。
なのに私の荷物を一緒に運ぼうとしてくれた。想定していなかったから素直に「わ!ありがとうございます!助かります!」と驚き。

その人がほんの少しでも私のために何か動いてくれたら驚き、喜び、感謝した。するとその人は、私に関する仕事は熱心に取り組んでくれるようになった。「驚き欠乏症」だったのかもしれない。

「ほめる」はしばしば、ほめるに値する要求水準を満たさないとほめない、ということになりがち。しかし私は基本、相手に期待を一切しない。どうこうしてもらおうと一切考えない。なのに、私のためになることをしてくれたら、たとえそれが微細なことでも、素直に驚ける。だって、期待してなかったから。

赤ちゃんに対する母親も、赤ちゃんに要求水準を求めることはしない。できない。言葉が通じないから教えようがないし。ただ、いつかハイハイできますように、立てますように、言葉を話せますように、と祈るばかり。しかしいつになるかはコントロールできない。
するとある日、できるように。昨日と違う差分に驚き、喜ぶ。

昨日と違う今日の差分に気がつき、驚き、面白がることは、赤ちゃんの頃から抱いてきた「驚かせたい」という欲求を強く刺激するもののように思う。だから、期待せず、驚くことができるマインドセットが大切なように感じる。

では何に驚くかなんだけど、これも母親の赤ちゃんに対する接し方から抽出すると、工夫、発見、挑戦に驚く、ということになると思う。
赤ちゃんが物を上手につかめない時、物を掴むために色んな工夫を続ける。言葉を覚えようとする時、親の話す様子をじっと観察し、自分の声の出し方も工夫を凝らす。

赤ちゃんはそうした試行錯誤の中から体の動かし方、言葉の発し方をつかみ取っていく。工夫、発見、挑戦という試行錯誤の繰り返しをして、子どもは教えられずとも、見よう見まねでマスターしていく。それに大人が驚いてくれて、ますますハッスルする。
 
赤ちゃんを見てると、よく飽きもせずに根気強く続けるなあ、というのを見かける。そして試行錯誤の結果、ついに成し遂げると、赤ちゃんは嬉しそう。それを横で見てる親が驚いてるのをみて、してやったりと喜ぶ。

驚く、というのは、赤ちゃんが工夫し、発見し、挑戦するさまを一緒に観察し、変化が起きたときに「お!」と驚いて見せる、あの母親の姿勢が最も適切なように思う。
赤ちゃんに余計なことを教えようとせず、期待もせず、しかし興味深く赤ちゃんを観察し、小さな変化に驚きの声を上げた、あの姿。

どんな年齢層の人にも、この接し方は有効だと思う。どんなことで驚かされるかは、相手次第。ゲタを預けてる。ただ見守るという形で観察し、工夫や発見、挑戦があったら驚く。すると、試行錯誤をやめなくなり、ますます能動的になるように思う。

工夫、発見、挑戦に驚くことは、何なら一人で能動的に楽しむことを促すことにもなる。工夫、発見、挑戦は、新しい変化をもたらし、ひとりでもなかなか興味深いから。ただ、どうせならその驚きを誰かと共有したい。一緒に驚いてほしい。
そんな人がひとりいたら、人生は幸せだ。

そんな一人にあなたがもしなったら、その人は能動的な人間に変わっていくように思う。誰しも、人を驚かせたいし、驚きを共有してほしいと願っていると思うから。

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