有産階級、無産階級、資産、産業の名称は不適切

有産階級(ブルジョア)、無産階級(プロレタリア)は、とてもヘタな訳語だと思う。無産階級は労働で様々な商品・サービスを「産」み出してるのに、「無産」という誤った名称で「社会に貢献していない」という誤解と非難を招く恐れがある。どうせなら有財階級、無財階級とすればよかったのに。

低所得者は納税額が小さい割に福利厚生で受け取るものが大きいという理由で「社会に貢献していない、我々富裕層は多額の納税をすることで国に貢献している、選挙権を2人分、3人分ほしいくらいだ」と批判する富裕層の意見を複数聞いたことがある。私は次のように問いかけてみた。

「あなたの多額の収入は、低所得者から搾り取ったお金では?あなたは労働として低所得者の2倍3倍働いてるわけではありますまい。なのに2倍3倍稼げるのは、低所得者が手にすべき所得を掠め取ってる可能性はないですか?」と。

低所得者はしばしば、体力のギリギリまで働いている。つまり、社会に多大な貢献をし、商品やサービスを産み出すための実働をしている。彼らこそ「有産」と言える。しかし富裕層はしばしばお金を右から左に動かすだけでお金を稼ぐ。労働をせず、何も産み出さない「無産」なのに。

今後は名称を変え、有財階級、無財階級としたほうが、妙な誤解を与えないように思う。
なんか、有産階級、無産階級という名称は、今となっては誤解をわざと招くための悪意ある訳語とさえ思えてしまう。

同じ流れで、ヘタな訳語だな、と思うのが「資産」。経済学の父アダム・スミスの以前から、お金は富ではない、というのが経済学の常識。富は、商品やサービスなどの実際に人の役に立つものが富であって、それと交換するものでしかないお金は富じゃない。でもお金を「資産」と呼ぶと。

なんだか、商品やサービスと同じように富として産み出されたもののような語感になる。資産を持つ人々を有産階級、持たない人々を無産階級と呼ぶ原因にもなってる。資産も「資財」に変えた方がよいように思う。

動産、不動産という言葉も、それ自体は商品やサービスを産み出すものではないのだから、動財、不動財の方が適切な気がする。

もっと言うと、「産業」という言葉もおかしいと思う。ほとんどの産業はエネルギーや資源を消耗するばかりで、生み出してはいない。ほとんどの産業はエネルギーや資源を加工して商品やサービスに変えている「化業」に過ぎない。産業という名称は、何かを生み出してると誤解させる語感がある。

これからの時代は、石油などの化石エネルギーや資源の消耗をなるべく減らし、太陽などの自然エネルギーを生かした社会に変わっていく必要がある。エネルギーや資源を大量に消耗する産業は「消耗業」と呼び替えた方が適切だろう。エネルギーや資源を産み出すものだけを「産業」と呼んだ方がよい。

太陽光発電や風力発電などの自然エネルギーからエネルギーを産み出すもの、そして太陽エネルギーから食料を作る農業など、限られた仕事だけが「産業」と呼びうる。その他は「化業」や「消耗業」でしかない。

消耗業でしかないのものを「産業」と呼ぶと、私達は何か産み出していると勘違いしてしまう。それは形を作り替えている「化業」でしかない、と、言葉から明確に意識しないと、私達は思考や行動まで混乱してしまう。私達の行動を変えるためにも、こうした言葉から考え直すことも必要かもしれない。

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