倫理という隠れ蓑
ワシントン大統領が子どもの頃、父親が大切にしていた木を切った。木が切られてることにカンカンの父親に、ワシントンは正直に謝った。父親はその正直さをほめた。「だから正直であることは大切です」とものの本に書いていたけど、どこでもかしこでも正直過ぎるのも考えものだと思う。
病院に入院してる人を見舞いに行って「今日は一段と顔色悪いな」と正直に言ったら、さらに病気を悪くしてしまうかもしれない。「正直であるべき」「ウソを言ってはいけない」という画一的なことを子どもに教えるのはよくないな、と考えた。このことを子どもが生まれる前にYouMeさんと話し合った。
大切はことは、正直やウソとかの「外面的」なことではなく、人を傷つけないこと、人への優しさを失わないようにすることだろう、という点で一致した。
病人の顔色が一段と悪くても「今日はちょっと顔色いいな」と声をかけたら、ウソがマコトになることがある。ウソはあながち悪くない。
ワシントンの父親の疑いが、立場の弱い使用人にいきそうになり、その人たちがクビになるような、無実の罪に問われるくらいなら、自分から名乗り出よう、と、人を傷つけない気持ちから正直になったから、ワシントンはほめられたのだろう。優しさ、人を傷つけないことこそ大切。
だから、私とYouMeさんは、正直であらねばならぬ、ウソを言ってはならぬ、とは教えないことにした。そのかわり、人への優しさを失わないことを大切に、人を傷つけるようなことには決然と許さないことを大切にすることにした。
世の中には、「正直倫理」をタテにとって開き直る人がいる。正直に言っただけなのにどこが悪い?世の中では、正直はよいこととされてるだろう?と。正直を隠れ蓑に、盾に取り、自分の攻撃的な言動を正当なものだと主張する人がいる。
しかし私は正直という外面的なところに価値をおかない。
その言葉を言ったら人が傷つくのではないか。人への優しさ、配慮に欠けた言動ではないか。それをそのつど検証し、今の場合はどう言葉を発した方が優しさになったかを考える。そこが大切なのだと思う。
倫理はしばしば、自分の凶暴性を正当化する隠れ蓑になる。その胡散臭さは忘れないようにしたい。