ソクラテスの産婆術
高校の歴史や倫理政経では、ソクラテスについて「無知の知」というのを教わる。でも「それがどうした」と思ったのは私だけだろうか。自分が無知なのは自覚してますよ、というのは謙虚かもしれないけど、世紀の大発見とはとても思えない、というのが正直なところではないか。
私は正直「無知の知」は大したことはないと思うけど、ソクラテスはやっぱりスゲーな、と思う。ソクラテス以前、知は天才だけの独占物だった。たまたま天才として生まれた人だけが突然変異的に知識を身に着け、凡人は天才の言う通りにしていればいい、と。こうした状況をソクラテスは根底から覆した。
ソクラテスは若者に人気があった。ソクラテスを見かけると若者の方から声をかけ、ソクラテスは気楽に応じた。でもソクラテスが語るのではなく、もっぱら若者が語った。ソクラテスは訊き役。ただし、その訊き方が素晴らしかった。ソクラテスに訊かれた若者は嬉々として語った。
ソクラテスはその訊く技術を「産婆術」と呼んだ。ソクラテスは若者の話に興味を示し、「それはどういうこと?」と詳しく訊き出そうとする。すると若者は張り切って語る。ソクラテスは「話を聞いてこういうことを思い出したけど、それとあわせて考えたらどうなるだろう?」と問いを重ねる。
すると若者は考えたことがないものだからウーンと考え込み、その上で「こうではないですかね?」と答える。ソクラテスはその答えを面白がり、「それについて大いに語り合おうじゃないか!」というのだけど、もっぱらソクラテスは問う側、若者が答える側。
すると、ソクラテスも若者も予想のしていなかった方向に話が進み、思わぬアイディアにたどり着く。若者は自分の口から斬新なアイディアが飛び出てきたことに驚き、自分が知恵者になった気がして嬉しくなってしまう。
プラトン「饗宴」では、アルキビアデースという人気者がソクラテスにベッタリ。
プラトン「メノン」では面白いシーンが描かれる。数学の素養のないソクラテスと、その家の召使いが話し合い、ソクラテスが問いを重ねるうち、図形の新しい定理を見つけてしまう。
知とは、天才だけが知るものではなく、凡人が問いを重ねてるうちに発見できるものだということを示した。
興味深いことにソクラテスの「産婆術」は、自分を賢いと思っている人に向けると切れ味鋭い「弁証法」になってしまう。
当時、古代ギリシャ切っての天才と言われていたプロタゴラスやゴルギアスのもとに行って、ソクラテスは若者にそうするように、問いを重ねた。すると天才たちは。
最初は「それはこういうものだよ」と偉そうにソクラテスに語って見せていたのに、段々と答えに窮し、最後に「実は、私はそれについてあまり詳しくないのだ」と白状せざるを得なくなった。天才の無知ぶりを暴く「弁証法」に。
無知を自覚している若者に対しては「産婆術」となり、新たな知の発見ができるのに、賢ぶっている人間に対しては無知を暴く「弁証法」となる。これは衝撃的な発見であり、ソクラテスが歴史を変えた人物として記録されるのは、この「産婆術」にこそ理由があるように思う。
ソクラテスは産婆術と、その裏返しである弁証法によって、2つのことを示した。
天才と呼ばれる人でも知らないことがあるということ。
凡人であっても垂れもまだ気づいていない発見が可能であること。
知を「天才の独占物」から「凡人の届きうるもの」へと民主化することに成功した。
その意味で、ソクラテスは世界史を劇的に変えた人物。歴史の教科書で習うのは当然だと思う。でも、「無知の知」は正直どうでもいい気がする。産婆術の方がはるかに重要な役割を果たしている気がするから。