ドリカム「サンキュ」の距離感

人の相談に乗るのに、「寄り添う」って必要なのかな、と思う。寄り添われたら嬉しい。しかし先日まとめたように、溺れた人が救助に来た人を踏み台にして息を継ごうとするので、寄り添った人間が深みに沈められるリスクがある。「寄り添う」よりよい形はないものか。

「寄り添う」は、寄り添われる側からしたらありがたい。甘えられると思うから。だから急速に依存してしまうことがある。溺れる者がワラをもつかむように。しかしそれをされると寄り添った人間もたまらない。全エネルギーを「寄り添う」ことに奪われ、全精力を失いかねない。

ドリカムの「サンキュ」の歌にある情景が程よい距離感のように思う。何かつらいことがあったのだな、と察し、そばにいるけど、あれこれ聞かない。励まそうともしない。ただ一緒に花火をして楽しむ。
やがてつらかった体験を話しても共感するわけではない。「えらかったね」と静かにいたわる。

髪を切るならつきあうよ、と、これからもそばにいるということは伝えるけど、変に励まさない。ただ、そばにいるだけ。
そばにはいるけど一体化はしない。共感もなんならしなくて構わない。ただ、そばにいるよ、という距離感。もしかしたらこれが「寄り添う」なのかもしれない。

ネコをかわいがるのに、ネコの都合を考えずに、寝てるところを抱いたりエサを上げようとしたりすると、ネコから嫌がられる。
ネコがほっといてほしいときは放置し、なでてほしい時にはなでてやり、抱いてほしい時に抱いてやり、エサがほしいときに与えると、なついたりする。ネコとの距離感。

人間って、感情から何から一体感を味わいたいという欲求があるらしく、相談に乗る場合も、「寄り添う」が大切だと聞いたら「一体化」しようとしてしまうことがあるらしい。また、相談する側も、この人ならわかってくれるかも、と、一体化を目指そうとしてしまうことがある。でも共倒れする。

でも、たった二本の足で二人分の重荷は長いこと耐えられない。それよりは、相手が自分の足で立てることに気づいてもらうことが大切。ただ、段階がある。もう立つ気力を失ってる時に「立て!」と言われてもしんどい。その前に気を紛らわす必要がある。

悩んでる人は大概、「脳内サーキット」ができている。「あの時こうしてれば」「いやでもあの時あいつが」「でも他にも方法がなかったのか」「しかしあんなことがあったら誰だって」悔しかったこと、やり直せたらやり直したいこと、同じことをグルグル考えている。同じことばかり悔いるものだから。

思考の轍(わだち)ができる。車輪が轍にはまると出られなくなり、轍の通りにしか進めなくなるように、悩みも同じことを考えていると、思考の轍ができる。しかも何度も繰り返し考えているから、轍は深くなり、同じ思考を繰り返しやすくなる。しかも高速で繰り返し。

脳内サーキットができると、同じことを高速で繰り返し考えることができる。悩んでる人はこの脳内サーキットができていることが多い。「寄り添う」というより一体化する感じだと、この脳内サーキットに巻き込まれる形になってしまう。渦に飲み込まれかねない。

大切なのは、脳内サーキットが作る轍に、わき道となる溝を掘ること。すると、溝に沿って脳内サーキットの轍から外れることが増える。そんな考え方もあるか、と、これまでと違う思考になったりする。わき道作るには、一体化しないほうがよい。そばにいながら「意外」なことをするズレが必要。

ドリカムの「サンキュ」の情景だと、友人はそばにはいるのだけど、言うことを聞く訳じゃないし、花火を本人も楽しんで、たぶん、主人公からすると「意外」なことをしてる。でもそばにいる。そばにいるけど、軽く意表をつく行動をする。それが脳内サーキットの轍から外すのかも。

相談に乗るときに大切なのは、観察することで脳内サーキットの轍の軌道を見抜き、それをなぞる形で溝を掘ること。轍と同じ軌道ではダメだし、轍の軌道とくっついてないのもダメ。軌道から延伸する形で溝を掘る必要がある。うっかりわき道の溝にはまりやすい角度に。

そういう言葉をデザインできるよう、相手の話をよく聞き、相手の話に合わせる形で、しかも微妙に脳内サーキットからずれる思考の言葉を探す。相談に乗るときは、いかに相手の思考をずらすか、ずらしやすいように溝を掘るかが大切な気がする。

そのためには「観察」が何より大切な気がする。相手の話を聴くだけでなく、時に問いを発してその反応を伺うとか、身振り手振り表情などをよく観察し、仮説を立てる。その仮説を検証するために問いを発し、その反応を見て仮説を手直しする。そうして、脳内サーキットがどんな軌道を描くのか見極める。

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