哲学を誇ると「知を嫌う」を招く

「哲学」考。
昨今、哲学の中でも反省が進んでるらしいけど、あえてこれまでの日本の哲学を誇る人たちのイケスカンところを考えてみたいと思う。
哲学は本来、「知を愛す」もの。哲学の英語名、フィロソフィーは、フィロ(愛す)+ソフィー(知恵)から来ている。知を愛すことが哲学であったはず。なのに。

専門用語を駆使し、難しそうな話をより難しく話して、一般人には分かるまい、という態度をとるのが哲学、というイメージを振りまいてきた。そして「お前たちには分かるまい」と見下げるその姿勢が、人々を哲学から遠ざけてきた。「知を愛す」どころか「知を嫌う」ように仕向けてしまった。

これには、日本の知識人の伝統を変に受け継いだところがある、と、哲学研究者も反省を始めている。日本は江戸時代、漢籍を読めることが知識人の証だった。漢字の難しい言葉を駆使できるのが知識人、それをできないのは凡人。そうして知識人は凡人を見下げる悪いクセがあったように思う。

日本の哲学を誇る人たちは、そうした知識人の悪いクセを引き継いでしまった感がある。哲学用語を漢字の難しい言葉に訳し、漢籍や仏典と同様にありがたく祭り上げ、その経典を解読できる自分たちはちょっと高尚、知的、という態度をとってきたのが、これまでの日本の哲学に見られた悪いクセだったように思う。

哲学を学んでいる人のしばしばイケスカンところ、それは「お前の理解はまだ浅い」と言う人の多いこと、多いこと。こうした言葉は、人々を哲学から遠ざけるのに素晴らしい効果を示してきたように思う。この言葉は、自分を高みに上げ、他の人を見下す裏メッセージがこもっている。

これは、小学生に上がった子どもを持つ親がよくやってしまう言動に似ている。小学校に入る以前は、子どもを急かすことがなく、子どもが自分のスピードで学んでいくことに驚きの声を上げていたはず。だから幼児は学ぶことが楽しくて仕方ない。幼児は学習意欲が旺盛。なのに小学校に上がると。

「宿題はやったの?」「勉強はしなくていいの?」と先回りするようになる。子どもはそれらの言葉の裏に、親はすでにたくさんの知識を持っていて、それに追いつけと急かし、しかしそれを達成しても「さらにその次」と急かすばかりであろうことを察する。もう親は驚いてはくれないのだ、と。

で、多くの子どもは学習意欲を失う。高みからかけられる言葉は、無意識のうちに自分を見下げているということを感じさせ、意欲を奪われる。そのことに多くの親が気づかず、急かしてしまう。それと同じことを、日本の哲学を学んできた人たちは、少なからずやってきてしまったのではないか。知を嫌うように人々を仕向ける言動を。

「哲学は高度に抽象化した概念を駆使する学問である」という指摘を受けたが、私はそれはウソだと思う。ソクラテスは鍛冶屋とかなめし革職人の話ばかり繰り返していたという。身近な日常から思考をスタートさせていた。そこから深みへと、広がりへと導いていった。ちっとも難しくない。

そもそも抽象化というのは、人間の肉体がこの世の事象(具象)をそのままでは受け取れず、「ズレ」のある形でしか感じ取ることができないところからやむなく発生する現象でしかない。そんな高尚な話だと考える必要はない。人間って、こんなふうにズレてしか感得できないのかあ、でよい。

さて、哲学が「知を愛す」であるならば、人々が「知を嫌う」ように仕向けてきた、「哲学を誇る人たち」の姿勢は、大いに反省しなければならないように思う。昔は高尚なフリをしていたら、人々が憧れて学びに来る効果があった。しかしSNSの普及でガラリと変わったように思う。

大学の大先生も一般人と同じ地平で話せる空間ができた。すると、難しい言葉を難しいままにしか話せない人は「実は理解できてないんじゃないの?」という疑いが濃厚になった。一般市民に知識人がコテンパンにやられる光景も多く、難しいことを難しく話すのは「煙に巻こうとしてるだけ」と考えられるように。

私はもう一度、ソクラテスの精神に戻るべきだと思う。ソクラテスが大切にしたのは、人々が「知を愛す」ように仕向けること。事実、ソクラテスの元には、知的好奇心を刺激された若者がわんさか集まった。ソクラテスは「知を愛す」ように仕向ける力があった。

哲学を誇る人たちは、人々を学問から遠ざける遠心力を発揮してきてしまった。「知を嫌う」に仕向けてきた。もう、そんな言動はやめにしたほうがよいように思う。哲学を「愛智」と改名し、知を愛し、知を求める心を呼び覚ます運動として捉え直すべきではないかと思うが、いかがだろうか。

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