法は人々を豊かにするためのもの

岩波文庫の「韓非子」(全4巻)を読むと、相当に老荘思想が混入している。しかし韓非自身の筆によるものとされる文章だけ読むと、むしろ性悪説で有名な「荀子」を、さらに先鋭化・純化した思想だという強い印象を受ける。「徳」のような情緒的な感性を韓非は平気で無視しているように感じる。

韓非の真筆と思われる「韓非子」だけを読むと、「人間とはしょせんこんなものである」という透徹した人間観を感じる。夢も希望もまるでなく、人間という生き物を冷徹に観察している。それを「法」で操ろう、という意図が明確に表れているように思う。

すでに商鞅による法の支配で強国にのし上がっていた秦の王、のちの始皇帝は、「韓非子」を読んで大変興奮したという。なぜ「法」が威力を発揮するのか、その理由がわかった気がしたのではないか。
結果的に韓非は、友人だった李斯から裏切られ、殺されることになった。代わって李斯が、

韓非の行おうとした法の支配を徹底させることになる。秦は天下を統一し、始皇帝は好きなように振る舞うことが可能になった。李斯はその権力を背景に、非常に厳しい法律を量産する。儒教を信じる者たちを生き埋めにし、その本を焼く焚書坑儒を行ったり。

実に細々とした法律を定め、それを破れば囚人となり、大宮殿の建設の労働力として狩りだしたりした。「韓非子」の冷酷無比な法の精神を、冷酷無比にかけては韓非以上の李斯が実行した形。もはや法の支配は絶対かに見えた。しかし、事態は思わぬ方向に進む。

ある男が、労働者を決められた場所に連れて行く役目を命じられた。しかし長雨のために川を渡れず、期日までに労働者を連れて行くことは不可能になった。期日に遅れたら死刑。秦の法律はやたら厳しかった。どうせ死ぬなら、と、男は反乱を起こすことに決めた。

「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王様、貴族、将軍、大臣といえど、我々庶民と何の違いがあろうか)といい、反乱を起こした。この陳勝・呉広の乱は、秦の細かすぎる、そして厳しすぎる法律に不満を募らせていた庶民の怒りと恨みを爆発させた。全国に反乱が広がり、秦は瞬く間に崩壊した。

韓非や李斯は、一つ大きな読み間違いをしていたように思う。人はなぜ法律に従おうとするのか、という視点を、韓非も李斯も欠いていたように思う。秦は確かに法によって強国にのし上がったし、人々は法に従うようになっていた。しかしなぜそうできたのか?という点を、韓非や李斯は忘れていたのかも。

秦に法をもたらしたのは商鞅という男。商鞅は、単に法で国民を厳しく取り締まろうとしたのではない。それでは誰も法に従おうとしなかっただろう。なのに秦の人々が法に従うようになったのは、法に従えば自身も国も豊かになる、ということがわかっていたからだ。

秦は商鞅が現れるまで、貴族が気分で重税を取り立てるため、農民はすっかり労働意欲を失っていた。そこで商鞅は貴族の勝手な振る舞いを禁じる法を王の名のもとに定め、農民が勝手に財産を奪われないで済むようにした。これらの改革により、労働意欲が向上、民力も国力も増進した。

つまり商鞅は、国民が豊かになるように法を定めたわけだ。法を定める理由、それは国民を豊かにすること。それが明確だったから、人々は法を守るようになった。
商鞅が現れる前は、法を守る習慣が秦にはなかった。それを示すエピソードが残っている。

「これを指定の場所に動かしたものに賞金を与える」という看板を立てた。しかし誰も本気にしない。お上の言うことを信じられなかった。しかしある男が、ものは試しにそれを動かしてみることにした。すると本当に賞金をもらえた。これでお上の言うことを信じるようになったという。

商鞅の課した法は厳しいものではあったが、国民の生活を向上させる効果も高かったから、人々は従った。韓非や李斯は、「国民を豊かにする」という法の精神を欠いたまま、「人々は法に従う」という結果だけを利用しようとした。それが敗因だろう。

秦の次の帝国である漢は、秦のやり方を反面教師にした。劉邦は秦の首都を制圧したとき、たった三箇条の法律に簡素化した。無数の厳しい法律に縛りつけられて弱りきっていた庶民は、この改革を大歓迎した。

漢は秦の厳しすぎる法の反省を踏まえ、「物事はあまり細かいことに口出ししなくても上手く回る」という老荘思想的な発想に立って国を治めた。これが200年にも及ぶ漢の支配を可能にしたのだろう。

韓非と李斯は法は「何のために」定めるのか?という視点を欠いていた。人々が法に従うことを当然視した。その点に誤りがあった。人々が法に従うのは、そのほうが自分たちが豊かになれるからだ。そのことを韓非も李斯も忘れていた。「徳」が欠如すれば法は崩壊する。そのことを忘れてはならない。

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